津田沼教会 牧師のメッセージ
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『神の子イエスの受洗」(マルコ1:9~11)
マルコ1:9-11、2006・01・15
主の洗礼日礼拝(白)、イザヤ42:1-7、使徒10:34-38

マルコによる福音書1:9~11

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊“が鳩のように御自身に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


説教「神の子イエスの受洗」(マルコ1:9~11)

 本日は、主の洗礼日であります。顕現節に入りましたが、依然として、教会の用いる色は白であります。
 マルコの記事によると、イエスの洗礼はわずかに1:9,10,11と3節を用いているだけであります。しかし一致して4つの福音書がいずれも、主イエスがヨハネから洗礼を受けたことが記されています。けれども、罪のない方がどうして洗礼を受けたのか、古くから困惑させられていたようであり、一番後に書かれた福音書ヨハネ福音書には、直接主イエスがヨハネから洗礼を受けたこと自体の記述はなされていません。
 
しかし、マルコは、まっすぐに、ためらった様子もなく、主イエスの受洗礼を記述しています。マルコにとって、主イエスが洗礼をお受けになったのは、至極当然のようであります。1:9-11の3節は、こうなっています。「そして、その日々においてガリラヤのナザレからヨハネによってヨルダン川へと洗礼を受けるということが起こった。そのとき、自ら上がるとじきに、天が裂かれるのを彼は御覧になった。そして、霊が鳩のように、彼へと下ってくるのをごらんになった。そして、声がなった、天から。すなわち、『あなたは、わたしの子、愛する者、あなたにおいて私は喜びをもっている」と。

 主イエスは神の独り子であります。そして、そのあとに、メシアであり、苦難のしもべであることが来るのであります。
 本日のイザヤ書と使徒言行録にも書かれていますように、私たちの罪をにない、悪魔に悩まされている人を癒すという主イエスの宣教は、このイエスの洗礼から始まるのであります。

 さて、現代の日本でも、多くの混沌とした宗教や新興宗教といわれるものもいまだに後を絶ちません。多くの日本人たちはその中で翻弄されているといってもいいでしょう。しかし、私たちには、聖書が与えられています。聖書を、他の宗教と混合あるいは融合したり、あるいは聖書のある部分を差し引いたり、削ったりしては、十字架につき、わたしたちのしもべとなってくださったお方を正しく信じることはできなくなります。
 
皆さん、このお正月、多くの違った宗教や文化、伝統に触れる機会も多かったことでしょう。しかし、繰り返しますが、私たちには長い歴史を持った聖書が与えられています。そして、その聖書が、すなわちイエスや使徒たちにとってはそれは旧約聖書を意味していましたが、その旧約が約束してきたメシアが、主イエスにおいて実現したのであります。
 
それを他の宗教や科学など別の何かと混合しては、決して正しい信仰を保つことはできません。そうすることがいわゆる宗教間の対話となることではありません。私たちはそのことを、確認し、おぼえるために、毎週の礼拝があたえられているのであります。この真実の道から離れないように、聖霊によって導かれながら、この一年を送っていきましょう。キリストのみ名によって、アーメン。




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2006/01/15(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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