津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなたも立ち直れる」(ルカ15:11-32)
ルカ福音書第15章11節-32節、2016年3月6日、四旬節第4主日礼拝、(典礼色―紫―)、イザヤ書第12章1節-6節、コリントの信徒への手紙一第5章1節-8節、讃美唱137(詩編第137編1節-6節a)

ルカによる福音書第15章11節-32節

 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近く来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 
説教「あなたも立ち直れる」(ルカ15:11-32)

先週は、実をならさないいちじくの木を、主イエスが手を入れて、父なる神にもう一年待ってくださるようにとりなしていてくださるという悔い改めの必要を説いた記事でありました。
今日は、それでは、悔い改めとは実際どういうことであるのかを、説くものです。今日の旧約聖書の第1朗読のイザヤ書代2章1節から6節は、バビロン捕囚から戻ってくる喜び、そして、主なる神をほめたたえる記事であります。「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」(イザヤ書代12章3節)と預言者イザヤはいつの日か到来するバビロン捕囚からの帰還の日を約束しています。

今日の讃美唱の詩編第137編1節から6節は、それとは反対に、捕囚の地にあって、シオンの神を賛美してみよと異郷の徒に迫られても、主の歌を、シオンの歌を異郷の地でどうして歌うことができようかとこの詩人は嘆いています。もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよいとまで歌っています。これもまた、イスラエルの民の神告白であります。

また、今日の信徒への手紙一の第5章1節から8節は、使徒書の朗読は基本的には通読となっており、必ずしも福音の日課とつながる訳ではありませんが、あなた方の中から、古いパン種を取りのぞき、悪い習慣がはびこらないように注意するようにとのパウロの勧めであり、今日の「放蕩息子の譬え」といみじくもつながりがあると見ることができます。「キリストがわたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではないか」と混じり気のない信仰生活を勧めています。

そして、今日の福音は、ルカ福音書第15章11節から32節であります。今はレントであり、聖卓などで使われる布の色は紫であります。これは、主イエスの十字架上で流された血を表すと共に、悔い改めを表すために使われている色でもあります。

このレントの時に、主イエスのなさった譬えの中でも最も有名なものの一つであります「放蕩息子の譬え」がなぜ読まれるのでしょうか。しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
さて、今日のこのルカ福音書の有名な譬えは、主イエスが徴税人や罪人たちと食事を共にするのを見て、つぶやくファリサイ派や律法学者たちに向けて、それに答えて説かれたものであります。そのために、主がなさった3つの譬えの中に位置しています。

最初は、99匹の大切な羊をあとに残して見失われた1匹の羊を探し当てて喜ぶ羊飼いの譬えであり、2つ目は10枚の銀貨を持っていて、そのうちの1枚をなくして、家の中中を探して見出した女の譬えであります。それに続けて主イエスは今日の譬え話を続けて語られるのであります。

「放蕩息子の譬え」として、名高い譬え話でありますが、しかし、これは、二人の「放蕩息子」といってもよい兄、弟の物語であり、更にもっと言えば、その二人へ惜しむことのない愛を向け続ける父親の譬え話と言えるのであります。そして、それは言うまでもなく、私たちの父なる神の愛を教える譬え話であります。

二人の息子をある人が持っておりました。その若い方が申し出てきて、自分の相続財産を分けてほしいといい、父親は寛大にもその弟の言い分を聞いてやり、その分を分けてやります。弟は兄の半分、すなわち、全体の3分の1を、その当時は受けたようであります。生前贈与でありますから、それよりももっと少なかったかもしれません。
そして、数日にして、弟は金に換え、遠くの地方へ、遠い国へと旅立つのであります。弟は独身のようですので20歳前後であったかもしれません。次男坊というのは、いつの時代でも自由を求めて、生活するのを好むものかもしれません。私にも兄がいますが、この放蕩息子の譬えを読みますと、つくづく自分は弟のほうだなあと感じさせられます。

さて彼は、その財産を思うままに使い、放縦に暮らしてしまいます。そして、使い果たした時、悪いことは重なるもので、ひどい飢饉が起こり、食にも事欠き、その地方の市民のもとに身を寄せ、雇われ、その人は彼を野へと送り出し、豚飼いをさせます。彼はその食べるイナゴ豆からでも腹を満たしたいと願いますが、だれも与えようとはしませんでした。
ユダヤ人たちにとって、豚はひずめは分かれているが反芻しないので、食べてはならない食物となっていました。あるユダヤ教のラビの言葉には、豚を食べることとギリシャ哲学にかまけることを戒める教えが残っています。
ですから、この弟は、ユダヤ人にとって、最低のみじめな状態に落ちていると言っていることになります。

しかしそのとき、彼は自分に立ち返って、すなわち、正気に帰って、自分に言うのです。私の父のもとではあんなに大勢の雇われた者たちがパンで満ち足りている。そうだ、父のもとに戻って、こう言おう。私は、天に対しても、あなたの前でも罪を犯しました。もう息子と呼ばれる値打ちはありません。雇い人たちのうちの一人にしてくださいと。  
そして、彼は、そのまま、立ち上がって、帰郷の旅に出て行きます。それが大事なことであります。
ところが、まだ彼が遠く離れているときに、父は彼を見出し、憐れに思って駆け出し、「その首に向かって倒れて接吻した」と言う風に書かれています。
息子は、帰郷の途上にもこう言おうと繰り返し考えていたとおり、自分の罪を打ち明けます。私は、天に対し、あなたの前でも罪を犯しました。もはや、息子と呼ばれる資格はありませんと。人に対する罪も、どんな罪も結局は神に対する罪なのであります。

しかし、父は、その後は言わせないのです。そして、すぐに僕たちに命じて、急いで極上の長い服を持って来るように言いつけ、サンダルをはかせ、手に指輪をいれてやります。これは、ファラオによって、王の次に地位に引き上げられたヨセフの物語を思い起こさせます。雇い人の一人としてどころか、自分の息子として以上のもてなしぶりです。さらに、命じて肥えた子牛を屠らせます。そして、食べて祝おうと、祝宴を始めます。
この息子は、死んでいたのに、再び生きるようになり、失われていたのに、見出されたのだから、そうするのは当たり前だと言うのです。私たちが罪によって死んで、失われた存在になっていたのを、主イエスが十字架にかかられて、新しく生きる者とされた、その十字架を通しての、父の愛が、ここに垣間見れるのではないでしょうか。

さて、ところが、野で働いていた兄は、戻って来つつあるとき、家のほうからその音楽と踊りのざわめきを聞き、それは何なのか、召使の一人を呼び出して聞き出します。
音楽という言葉は、シンフォニーというもとの言葉で、鳴り響く笛の音や踊り、手を打ち喜ぶ祭りのような様子・異変に、兄は戸惑い、尋ねるのです。
すると、召使は、あなたの弟さんが無事に戻って来られました。それで、父君が子牛を屠り、祝っているのですと伝えます。兄は怒って、中へ入ろうとはしません。それを聞きつけた父が出てきて、なだめますが、聞き入れません。この言葉は、慰めるという意味の言葉でもあります。

兄は父に、あなたに私は、奴隷のように長年仕え、一度も命令に背いたことはありません。なのに、一度だって、友達と祝うために子山羊さえも与えてくれたことは一度もありません。ところが、あなたのあの息子が娼婦たちと金を使い果たして戻ってくると子牛を屠って祝宴をお始めになると、弟のことをくさしています。
しかし、父は言います。すべて私のものはあなたのものである。あなたは、私とずっと共にいる。しかし、あなたの弟は、死んでいたのに、生きるようになり、いなくなり、滅びかけていたのに、見出された。私たちが喜び祝うのは当たり前ではないかと。

この後、兄は、父がなだめるのを聞き入れて、家の中に入り、共に喜び祝ったのかどうかは記されていません。それは、私たちが、考えるべき問いとして、残されているのです。ただ、兄もまた、父の家で喜び仕えるように今も招かれていることだけは確かです。

レンブラントが放蕩息子を迎えた絵がいつくかあるようです。その中で、ヘンリー・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」と言う本の表紙に用いられているレンブラントの絵があります。
そのやつれて年老いた父は、ボロをまとい、張り裂けたサンダルで帰郷して来て、その膝元に跪く弟に悲痛な面持ちで対しています。ところが、それを、軽蔑の眼差しで見ている兄二人が描かれ、その奥にはだれか分からない人物の顔も影のように映っています。あるいは、これを描いたレンブラント自身を表しているのかもしれません。

弟は、悔い改めて戻ってきました。しかし、その悔い改めの告白を言い終わらぬ前から、父は、迎え入れ、歓迎し、即座に祝宴を開いて喜ぶのです。ところが、働きの場から戻ってきた兄は、それを喜ぶことが出来ず、怒りを治めることができません。兄は、父と共にいて、仕えていましたが、奴隷としての苦役として、そうしていたのに過ぎず、好き放題をして、滅びかかって戻ってきた弟を赦すことはできず、ましてや、共に喜ぶことが出来ないのです。

この兄は、これが直接語りかけられた律法学者やファリサイ派のみならず、ユダヤ人一般であり、弟は、異邦人であった我々かもしれません。しかし、放蕩息子とは、実は父に喜んで仕えてはいなかった兄もある意味では同じであると言えましょう。しかし、父なる神は、そのいずれに対しても、惜しむことのない慈しみを持って、憐れみを示しておられます。

このレントのとき、主なる神にすべての人が立ち返ることを、主はお望みです。滅びから、救いに入れられる喜びを、その終わりの日の祝宴でもある聖餐を通して主と共に喜び、十字架にかけられて、その体と血とによって、罪から解き放たれ、まことの自由を与えられている幸いを感謝しましょう。今日の父親に優って、その独り子をも、十字架におかけになって、私たちの罪を担って下さった神のまことの愛に、心を向け合いたいものです。
祈りましょう。
天の父なる神さま。レントの深まるこの時期に、十字架におかかりになろうとしている主イエスが、今日の譬えを語ってくださいました。私たちが罪に滅びることをあなたは、決してお望みではなく、そこから、我に立ち返ることを、あなたは今も何にもまして願っておられます。あなたのもとに、急ぎ立ち帰って、あなたに喜び仕える者とならせてください。残されたレントの時を、主の十字架を見上げて黙想し、霊肉ともに強められた生活をすることができますように助けてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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2016/03/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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