津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「主の輝きを指し示す」(ヨハネ1:19~28)
ヨハネ1:19-28、2005・12・11、待降節第3主日礼拝
イザヤ書61:1-4、テサロニケの信徒への手紙一5:16-24

ヨハネによる福音書1章19節~28

 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。


説教「主の輝きを指し示す」内海望牧師(津田沼教会引退教職)

 6節から9節にはヨハネについて語られています。彼は「まことの光が世に来て、すべての人を照らす」というクリスマスの出来事を指し示すために来た人物であるのです。
 クリスマスをヨハネは「光の到来」として示しているのです。いつの時代でも、どこでも「もっと光を!」と光を求める叫びは絶えることがありません。飢餓に苦しむアフリカで、戦禍に苦しむイラクで、パレスチナで、アフガンで。24時間こうこうと灯が消えることのない日本でも「光を!」と叫ぶ声が絶えないのです。
 この叫びを神さまは聴き取って下さったのです。そして、まことの光としてみ子イエス・キリストを救い主として私たちの真ん中に送って下さったのです。
 しかし、ヨハネは主役でなく、あくまでも「光」を指し示す脇役として登場しました。ヨハネは大きな感動を人々に与えた人物でした。彼は「荒れ野で『らくだの毛ごろもを着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし、』」禁欲的な生活をしながら「悔い改めの説教をしていた」人物です。その奇跡的な誕生の物語と共に人々に大きなインパクトを与えたことは当然です。従って、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿い一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、彼から洗礼を受けた」と記されています。
 人々は、待ち望んでいたメシア(救い主)が来たのではないかと考えたのです。それが19節にあらわれています。「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と質問したのです。これは当時の指導者がヨハネの所に来たことを示す文章です。彼らはヨハネを呼び出すことも出来たのです。それほど高い地位にいたのです。しかし、わざわざ膝を折ってヨハネのところにまで来たのです。
 私たちは、人々から持ち上げられるとすぐに主役になりたがります。しかし、ヨハネは「違う」「そうではない」という三回にわたる断固とした否定は感動的です。「指」に留まっているのです。
 ヨハネは自分の人格、行いについて何も触れず、ただ「(私は)荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と語る者だ。」と答えただけでした。自分は「声」に過ぎない、私が指し示す方こそ、自分を含めて、従うべき方である」と「光を指し示す者」にとどまったのです。
 ここで、私たちはマリアを思い浮かべます。マリアは、「私は主のはしため(端女=召使)です。お言葉どおり、この身になりますように。」とイエスさまの母になることを受け入れ、「私は主をあがめ、主を喜びたたえます。なぜなら、主はこの身分の低い、私にも目を留めてくださったからです。」と「無であり、無価値であり、軽蔑され、悲惨な死んだ者を尊い者、名誉ある者、祝福された者となさる」神さまの顧みにひたすら感謝と賛美をささげました。ルターは「こんなに大きな賜物を受けたマリアが傲慢や自負に陥らなかったのは、彼女がこのような賜物を受けたことよりも大きな奇跡である。」とまで語っています。
 民衆はヨハネの「主の道をまっすぐにせよ」という言葉に打たれました。これが、「(あなたの人生に)主をお迎えする準備をしなさい。主が歩む道を整えなさい」という意味であり、「悔い改め」を促す言葉であることを正しく理解したからです。それでぞくぞくと悔い改めの洗礼を受けるためにヨハネのもとに来たのです。
 教会また信仰者は、まさにこのヨハネの役割を負っているのではないでしょうか。
 教会について次のような文章を読みました。「キリストが人間の姿をとって、その民の中に来られたことを告げる、明るい神さまの松明として、愛が教会の中で燃えさかるようであって欲しい。」というものです。まだ朝日は昇っていないとしても、そこ、ここに朝の気配を感じさせることこそヨハネの役目でした。同じように、このイエス・キリストの到来、その輝きを指し示すために教会があり、私たち信仰者ひとりひとりが生きている場です。
 私たちのどんな行いも決して光ではありません。ヨハネは立派な人格と生活をしました。
しかし、彼は指に留まりました。マリアは救い主の母親という大きな賜物をうけました。
しかし、彼女もひたすら光を指し示すだけでした。
 私たちもそうです。私たちもまたヨハネの前に並び悔い改める民の一人です。自分を誇ることは何もありません。罪人です。しかし、ヨハネは力強く語ってくれます。あなた方の只中にイエスさまがいらっしゃると。罪人であり、無価値であるこの私たちも光を指し示す指になることは許されているし、可能なのです。このことを感謝して、光栄ある脇役となりましょう。そして、イエスさまの香りをこの地にもたらす群れとなりたいと思います。


スポンサーサイト
2005/12/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。