津田沼教会 牧師のメッセージ
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「心静め、十字架を仰ぐ」(ルカ18:31-43)(内海望牧師)
ルカ福音書第18章31節-43節、2016年2月21日、四旬節第2主日礼拝(典礼色―紫―)、エレミヤ書第26章7節-19節、フィリピの信徒への手紙第3章17節-第4章1節、讃美唱4(詩編第4編2節-9節)

ルカによる福音書第18章31節-43節

  イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱り付けて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れてくるように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。



   説教「心静め、十字架を仰ぐ」(ルカ18:31-43)内海望牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 「今、私たちはエルサレムへと上って行く」。この一句によって、私たちの視野に十字架が大きく映し出されてきます。
 「今」という一言には、イエスさまの、静かな、しかし、断固とした決意がこめられています。イエスさまは決して物見遊山的な気分で「エルサレムに行く」とおっしゃられているのではありません。また、突然思い立ったというわけでもありません。この「今」は、ずっと覚悟を決めていた「その時が来た」と言う意味です。イエスさまは、このエルサレムで十字架につかれたのです。ヨハネ福音書13章1節(194頁)には、この時の、イエスさまの心の内を、「イエスは、この世から父のもとに移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく(極みまで=最後まで)愛し抜かれた。」と表現しています。
 イエスさまは、エルサレムには苦難と十字架の死が待ち受けていることをご存知です。しかも、それが、偶然、自分に降りかかった災難でなく、これが、愛する人間を一人も滅ぼさないで、罪と死の縄目から救い出す唯一の道であることをご存じだったのです。それが、「この上なく愛し抜かれた。」と言う言葉の意味なのです。
 更に、イエスさまはこの時こそ、「預言者によって語られたことの実現である。」とも弟子たちに告げられるのです。イザヤ書53章にはこう記されています(1149頁)。5.12節。
 まさに十字架を負うイエスさまの姿です。「時が来た」とは、イエスさまにとっては十字架の苦しみと死の時であり、私たち人間にとっては、まさに決定的な救いの時なのです。
 ここで、イエスさまは「私たちは・・・・」とおっしゃっています。これは、イエスさまが、なおも弟子たちと共に歩んで下さるということを意味します。イエスさまは、最後まで、「共に歩んで下さる方」なのです。聖書全体には、この「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という喜びの調べが響き続けています。
 このインマヌエルの事実をルターは次のように語っています。「主は、来られます。あなたが主を求めるのではありません。主があなたを求められるのです。あなたが主を見出すのではなく、主があなたを見出して下さるのです。主はまったくあなたのために身を捧げて下さいました」と。
 その通りです。今、私たちと共に、私たちを救うために、すべてを捨てて、イエスさまは、エルサレムへと、十字架の道を一方踏み出されたのです。
 ところが、驚くべきことに、34節には「十二人はこれらのことが何もわからなかった。」「理解できなかった。」と書かれています。「何もわからなかった。理解できなかった」のです。イエスさまは、十二人を見出し、身を捧げようとしていらっしゃるのに、弟子たちは、その愛に気付きもせず、理解もできなかったのです。イエスさまの決心と愛の深さに対して全くかけ離れた弟子たちの姿に、私たちは言葉を失います。彼らは、「共に歩いてくださる方」が見えなかったし、必要とも思わなかったのです。
 四旬節(受難節)とは、私たちが心を静め、イエスさまの十字架をしっかりと見つめる時です。その時、私たちには何が見えて来るでしょうか。何よりもそれは、イエスさまの、私たちを救うために十字架の死を受け入れるという真剣な、真実の愛です。
真実には、真実をもって応えるべきです。
ところが、私たちは、この弟子たちと同じように、イエスさまの十字架を自分に関係ない他人事のように考えてはいなかったでしょうか。私たちは、あまりにも傲慢ではなかったでしょうか。日々の生活の忙しさにかこつけ、自分の知恵に頼り切って、日々の祈りさえ忘れ、イエスさまの十字架を必要としないかのように日々を生きて来たのではないでしょうか。わたしたちも12弟子と同じではないでしょうか。

四旬節という時が与えられたことは感謝です。この時、もう一度、しっかりと背筋を伸ばして、真実の心を持って、イエスさまの真実の愛に応えるべきではないでしょうか。
 イエスさまは真実の愛をもって、今エルサレムへ向かっていらっしゃいます。「この私が滅びないように」と、十字架で祈りつつ死んで下さったイエスさまです。このイエスさまの十字架にしっかりと目を注ぎたいと思います。その時、私たちの心には必ず『救いと赦しを求める心』が起こってきます。隠されていた私たちの罪の姿が見えて来るのです。
 思わず、「主よ、憐れんで下さい。」と祈り始める時です。その時こそ、イエス様の十字架の愛と、自分の罪を経験する時なのです。イエスさまの十字架の痛みと、死が、「他ならぬこの私のため」であったことを経験し、感謝し、み前に跪く時です。「彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/ 私たちに平和が与えられ/ 彼の受けた傷によって、私たちは癒された。」という先ほどのイザヤ書53章の言葉が心を打ちます。そうです、イエスさまは、「この私の罪を赦すために」十字架にかかって下さったのです。この事実をしっかりと心に刻み、感謝しましょう。
 幸いにも、私たちはイエスさまの復活を信じることが出来ます。死よりの復活により、イエスさまが罪と死に勝利され今も、私たちと共に歩み続けて下さっていることを信じることが出来ます。イエスさまの十字架の死と復活により、私たちの罪がすべて赦されたことを確信することが出来ます。罪の重荷から解放されます。私たちは、日々の生活では、なお罪人のままですが、イエスさまの十字架によって、「罪赦された罪人」として、新しい復活の命に生きることがゆるされているのです。イエスさまの十字架によって、「事実としては罪人ですが、希望においては義人」という生き方が与えられたのです。ここに何ものにも優る慰めと平安があります。新しく生きる勇気が与えられます。イエスさまの十字架の愛に心から感謝しつつ、心静め、祈る時として四旬節の時を歩みたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
 
 
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2016/02/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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