津田沼教会 牧師のメッセージ
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「試練から逃れる道」(ルカ4:1-13)
ルカ福音書第4章1節-13節、2016年2月14日、四旬節第1主日礼拝(典礼色―紫―)、申命記第26章5節-11節、ローマの信徒への手紙第10章8節b-13節、讃美唱6(詩編第6編5節-11節)

ルカによる福音書第4章1節-13節

  さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊“によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
 また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

説教「試練から逃れる道」(ルカ4:1-13)

私たちは、先週2月10日の水曜日の灰の礼拝から、日曜日をのぞく40日間を、レントとして、過ごします。その最初の主の日である今日は、四旬節の第1主日毎年同じ悪魔による主イエスへの誘惑の記事が読まれますが、今年はルカ福音書第4章の1節から3節までが、与えられています。

これは、出エジプトの、モーセに率いられたイスラエルの民の荒れ野の40年間をも想起させられますし、40日間、シナイ山で飲み食いしなかった、十戒を与えられますときのモーセや、40日間、立ち上がって、ホレブの山まで歩きとおしたエリヤを彷彿させられます。

それは、しかし、すぐ前の記事の主イエスが、民衆にまじって洗礼を受けた出来事とも、密接につながっています。主の洗礼のあと、聖霊が鳩のような形をして、主イエスの上に下り、天が開けて「あなたは、私の愛する子、私の心に適うもの」とのみ声が成ったのであります。

ルカ福音書では、それに続き、主イエスが宣教をお始めになったのは、およそ30歳のころであったことが記され、その父と思われていたヨセフから遡って、アダムに及び、アダムは、神に至るとまで記された系図が載っています。そして、皆さんの中にはあるいは、最初の人アダムは罪に陥ったことを、想い起された方もおられるかもしれません。

さて、その主イエスは、聖霊に満ちて、ヨルダン川から、引き返され、霊に導かれて、荒れ野を40日間、悪魔から誘惑をお受けになられます。新共同訳聖書は、「霊によって引き回され」と、激しい言葉で訳しています。その訳は父なる神が、聖霊を用いて、あるいは、聖霊の中を、み子を引きずり回しになると言いたいのだと思います。そして、主がその期間が終わったとき、飢えた状態になられます。そして、悪魔が、あなたは、神の子だから、この石に、パンとなるように言いなさいというのです。主は、「こう書かれている」と申命記の言葉を引用して、彼に向かって答えられます。「人はパンだけで生きるものではない」と。

今日の記事では、3つの誘惑が記されていますが、これは、私たち、すべての人間が、経験する誘惑をいわば例示しているのであります。私たちは、身体を守るために、食事をし、衣食住を整え、また、将来に備えるために働き、備えをしていきます。しかし、イスラエルの民が、荒れ野の40年で味わったように、彼らが飢えたときには、マナが与えられましたが、神への従順、そこから来る神の言葉による命を与えられなければ、すこやかな生活はできないのであります。先日は、バンコクへ説教研で二度目の旅行をしましたが、テレビをつけますと、仏教のチャンネルが一つあって、それが、タイという国には欠かせない霊的な支えとなっているのだと思いました。どの国の人も、神の言葉あるいは、仏陀の教えなど、人間を超えたものなしには、まともな生き方はできないことを示しています。

次に、悪魔は、高いところへ主を導いて、全領土の国々と、それらのその権力と栄光を見せ、あなたが私を伏し拝むなら、それは、私に任されているのだからで、私の欲する者に与えることができるが、どうか、と言いますと、主は、やはり、申命記のみ言葉にこう書かれている。すなわち、主にひれ伏し、神のみに仕えよ、礼拝せよとあるといわれます。

主イエスは、政治的なメシアとして来られたのではなく、悪霊、汚れた霊を追い払う権威を持ち、それに取り付かれた者を解放するお方としてお出でになられたのであり、神のみ言葉によって、この世の霊、あるいは、時代精神とも言えます、サタンの申し出を退けられるのであります。

で、最後に、エルサレムに、主を導いて、その神殿の頂き、それは、どこかよく分からないのですが、いずれにしても、「あなたは、神の子なのだから、ここから下へとその身を投じてみなさい」と、誘い、今度は、こう書かれていると、主と同じように、詩編の言葉を引用して誘います。神はあなたを守るように天使たちに命じ、その手であなたの足が石に打ち付けることがないように持ち上げさせると。

主は、またも、み言葉から、こうお答えになります。あなたの神を試してはならないと、言われてきたと。神を試すとは、神を疑うこと、不信のイスラエルの民のやったことであります。

主イエスは、しかし、いずれの誘惑をも、神のみ言葉を盾として打ち退けられるのであります。仕方なく、悪魔はあらゆる誘惑をおえたのち、時が来るまで、これは、カイロスという、その時期に見合った時まで、主イエスから離れたのであります。そして、その時、決定的な時とは、主がこの世の君に渡される受難のときであります。

十字架と復活というまことの栄光のときまで、主からは、その悪魔の猛烈な働きは制止されるのであります。そして、主が神殿の頂から飛び降りよというこの最後の悪魔の申し出をも、旧約聖書のみ言葉に頼って、打ち退けられたのであります。それは、十字架という逆説的な救いを、私たちに与える父なる神のみ心に従うためでありました。

罪を犯すことはなかったが、あらゆる人間の出会う誘惑を、主は経験なさり、すべての人を救う道を開かれたのであります。

私たち、信者も求道者の方々も同じく、多くの誘惑や試練に遭いますが、パウロが言う通り、み言葉に従い、信じていく者には、同時に必ず逃れる道をも備えてくださっているのであります。そのみ言葉に信頼しつつ、このレントの時期、主の十字架への道行きを思い起こしながら、又その死に打ち勝ち、死から三日目に復活なさいます主イエスを待ち願いながら、私どももこの時期、日々罪に打ち克ち、霊肉共にすこやかな生活を送っていきたいものであります。 アーメン。
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2016/02/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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