津田沼教会 牧師のメッセージ
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「信仰の冒険」(ルカ5:1-11)
ルカ福音書第5章1節-11節、2016年1月24日、顕現節第4主日礼拝、(典礼色―緑―)、エレミヤ書第1章9節-12節、コリントの信徒への手紙一12:12-26、讃美唱85/2(詩編第85編9節-14節)

ルカによる福音書第5章1節-11節

  イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして船から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


説教「信仰の冒険」(ルカ5:1-11)

人々は、ゲネサレト湖畔におられた主イエスの下に押し寄せてきます。エルサレムの神殿や会堂、シナゴーグではなく、カファルナウム周辺の野外礼拝であるかのように、群衆は、主イエスの下に迫って来ます。

そこで、主は、神の言葉を語るのです。いわば、小舟が説教卓であり、岸辺が会衆席であるかのようです。そこには、夜通し漁をして疲れ果てながら、網を洗っているシモンたちがいました。シモンも間近で、イエス先生の説教を耳にしながら、作業をしていたことでしょう。

そして、主がしゃべられるのを終えたとき、シモンに言われるのです。深みへと漕ぎ出して、網を降ろしなさいと。「先生、私は、漁にかけてはプロです。夜通し骨を折って、一匹もとれなかったのです。」

今日の物語を聞いて、ヨハネ福音書21章の復活顕現の主イエスの出来事を思い起こす人もおられましょう。今日の記事とヨハネ福音書の記事とは、同じ出来事を焼き直ししているに過ぎないのではないかと考える人も多いのです。

しかし、二重に重なり合う部分を持ちながらも、これは別の出来事だと私は信じます。さて、主イエスの招きの言葉に対して、シモンは、「あなたのお言葉ですから、従いましょう」、と応じるのです。これは、あなたのみ言葉、レーマという字で、出来事をも意味するものですが、あなたのみ言葉に頼んで、やってみましょうと言ったのです。

そのことを、彼らがすると、おびただしい魚を網は取り囲み、彼らは腕でそれを感じ取り、もう一そうの小舟の仲間に合図して、ヤコブとヨハネもやってきて、その豊かさのゆえに、二そうの小舟は沈められそうでありました。

その時、シモン・ペトロは、おそれを抱き、「私から離れてください、私は罪深いものですから、主よ」と願うのです。ある人は、ここで、シモンは、そう言うべきではなく、私と共にいてくださいと願うべきだったと注文をつけています。

しかし、ここで、初めて、シモンは、主イエスがどういうお方であるか、知ったのです。それまでは、先生でしかなかった主イエスを、主よと、終わりに告白しています。主は言われます。「恐れることはない、今から、あなたは、人間をすなどる者になろう」と。主は、このあとも、繰り返し、大事な場面で恐れることはない、私が共にいると、シモンを導きます。ここで、シモンは、シモン・ペトロと言う主イエスがつけたあだ名で記されています。ここで、シモンに、あなたは教会の礎(ペトロ、岩の意味)になると示されているかのようです。

その才能や性格や可能性の故にではありません。シモンは、率直な、憎めない人であったようです。しかし、生まれながらの資質などによって、使徒になり、主イエスの弟子となるわけではないのです。今日の第1朗読のエレミヤも、また、エリヤやエリシャも、また、モーセすらも、自分の力によって預言者や民の指導者になったわけではありませんでした。パウロにしても、主によって選ばれた器に過ぎなかったのです。

あなたは、人間をすなどる者になろうと、主は約束されます。命令ではなく、主から委託、むしろ約束を与えられているのです。

人をすなどるとは、旧約聖書では文字通り、生け捕りにするという裁きを思わせる言葉ですが、ここでは、み国へと、福音へと人々をとって、生かす者となると約束されているのです。

そして、それは、教会の使命であり、使徒に限らず、信者である私たち一人ひとりが今日のシモンの働きに、同じように招かれ、託されて生かされていくのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。





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2016/01/24(日) 10:30:14| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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