津田沼教会 牧師のメッセージ
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「故郷で語り始める主イエス」ルカ4:16-32
ルカ福音書第4章16節-32節、2016年1月17日、顕現節第3主日聖餐礼拝、(典礼色―緑―)、エレミヤ書第1章4節-8節、コリントの信徒への手紙一12:1-11、讃美唱119/2(詩編第119編9節-16節)

ルカによる福音書第4章16節-32節

  イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。


説教「故郷で語り始める主イエス」(ルカ4:16-32)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。

 今日は、主イエスが、故郷のナザレで、具体的に、シナゴーグにお入りになって、安息日に、説教を語り始められる記事、ルカ4:16-32が与えられています。皆さんも、過ぎました年末年始、古里へと帰られ、そこで、親しい者たちとも久しぶりに、再会して無事を喜び合ったり、喜びのひと時を共にする機会を得られたことでしょう。
 しかし、今日の主イエスが、故郷で、その村、あるいは町であったナザレの人々から、拒まれる体験が記されていますが、私たちの持っている主イエス・キリストへの信仰のゆえに、厳しい現実の前にたじろぐような体験をされた方も、少なくないのではないでしょうか。
 私も一年い二度ほど、帰省して、洗礼は形ばかり受けている、認知症気味の年老いていく母や、介護も中心になってしてくれている末の妹や、福知山から松山まで応援に来てくれている兄などとも、親しく交わるひと時を過ごして戻ってきました。同居していれば、可能な伝道も、離れ離れになっている現状では、思い通りに信仰を伝えることはできないよ痛感させられもして、複雑な心境で、津田沼にとんぼ返りのようにして、帰って来ました。
主イエスの場合はどうだったのでしょうか。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから、洗礼を受け、そのときに、天から聖霊を受ける出来事が先週読まれましたが、彼は、カファルナウムで第一声を上げ、育った故郷ナザレへと戻って来られます。そして、シナゴーグと呼ばれるユダヤ人たちの会堂に、主イエスの習慣であったとおりに、安息日にお入りになる。そして、聖書の巻物を、係りの者から渡され、お座りになって、イザヤ書の個所を見出します。
 あるいは、その安息日に読まれる聖書が、モーセ五書の中からと共に、この日の日課がイザヤ書の61編の日課の部分だったのかもしれません。もうこの時期には、モーセ五書からに日課と預言者の日課が、私たちが今用いている3年サイクルと同じように、読まれ、詩編も同じように読む個所が決まっていて、最後は祝福で終わっている礼拝だったようです。
 ここで、イエスによって読まれ、説教個所として与えられていたのは、イザヤ書61:1以下であります。主はここを紐解いて、読み上げます。主の霊が私に向かってある、主は油を、私に注がれたから。それは、私を遣わして、貧しい人に福音を宣べ伝えさせ、踏みにじられている人を自由ににし、盲人に視力を回復させ、囚われている人を解放させるためであり、それはまた、主の恵みの年を告げ知らせるためである、との預言の言葉をでありました。
 そこで、主は巻物を巻かれ、係りの者に返し、これらの言葉は、今日、あなた方の耳において実現したと語られたのです。
 主イエスは、私たちの罪と死に囚われている現実を解放するために、来られました。主イエスのこの説教において、ナザレの人々は、良く証言し、その口から出る恵み深い言葉に驚いていました。
 しかし、彼らは、この男は、ヨセフの息子ではないか、と言って今度は主を拒みだすのです。主はここで、預言者は故郷では敬われないものだという格言を引用され、あなた方は、カファルナウムで主が行ったというしるしを、ここでもしてくれと言うだろう。しかし、エリヤの時代に、やもめはイスラエルに大勢いたが、サレプタのやもめのみに遣わされたと言われ、また、エリシャの時代にも、イスラエルに大勢、重い皮膚病の者たちがいたが、シリアのナアマンだけを、エリヤは、癒されたと語られます。
 すると、会堂にいたすべての者たちは、怒りに満たされ、主を追い出して、その町の立っている丘の崖っぷちまで迫って、主をそこから突き落とそうとします。
 しかし、主はその人々の真ん中を通り過ぎて、立ち去られます。
 そして、カファルナウムへと下られ、再び、会堂で、安息日に教え始められます。人々は、その教えに圧倒されていました。その言葉には、権威があったからと、今日の日課の個所は終えられています。
 主は、イザヤの預言は、今日この日、ご自身によって、成就したと宣言なさいます。主イエスによって、今日、旧約聖書は実現しているというのです。しかし、故郷の人々は、その言葉を受け入れず、それどころか、主を殺そうとさえしているのであります。そして、町から追い出して、崖のふちから突き落とそうとまでしている。すでに、この最初の説教の時点で、主が拒まれ、十字架の死に至ることを暗示すらしているのであります。
 しかし、主イエスは、私たちの罪からの解放と死からの解放を、宣言し、罪なきご自身を死につけることによって、自由なものとされることを約束しているのであります。
 今年一年の津田沼教会の歩みも、この主が、どんなに困難なことがあっても、闇から解き放ち、恵みをもって導いてくださいます。そして、それを信じて、一人ひとりが証していく一年となりますように、願い、これから聖餐に与りましょう。アーメン。
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2016/01/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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