津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストの受けた洗礼」(ルカ3:15-22)
ルカ福音書第3章15節-22節、2016年1月10日、主の洗礼日礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第42章1節-7節、使徒言行録第10章34節-38節、讃美唱29(詩編第29編1節-10節)

ルカによる福音書第3章15節-22節

  民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物を解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つ悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。








説教「キリストが受けた洗礼」(ルカ3:15-22)



私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。

 皆さま、年末年始、いかがお過ごしだったでしょうか。私も、ほとんど毎年のことでありますけれども、今年は、顕現主日であった1月3日のあとに、慌しくとんぼ返りで松山の母の住んでいるアパートまで帰省してきました。
 だんだん、物忘れが進んでいく母も、私が帰省するのを指を数えるようにして、待っていてくれました。同じアパートに住んでくれている妹夫婦や、福知山から、時々、母の介護にかけつけてくれている兄とも、会えて楽しいひと時でした。
 けれども、新しい一年の初めの互い無事を喜び合い、この一年の祝福されたスタートを共に願うべきときではありますが、また一方では、信仰を伝える難しさを、改めて痛感させられる時でもありました。
 さて、今日は、主の洗礼日という特別の主日でもあります。クリスマスイブの時から、待降節に用いられました紫の色から、聖卓やストールで使われます色は、ずっと白のままであります。紫はやがて来られる王を意味していましたが、白は、神さまそのものを表しており、あるいは、復活のキリストをも示す色であります。
 1月3日だった顕現主日も、当方から、ベツレヘムまで、主の星に導かれて、拝みに来た、ユダヤ人たちから見れば、異邦人であったマギと呼ばれる人たちが、幼子イエスを見出して、礼拝し、来た道とは別の道を通って、自分たちの国へ帰っていったというマタイによる福音書記事が読まれました。
 この一年の始まったばかりのこの日曜日に、主イエスが洗礼を受けられた記事を、今年は、ルカの記事を通して与えられています。
 今日それぞれ与えられている第一朗読のイザヤ書42章の個所も、使徒言行録のペトロが、主イエスによる救いは、イスラエルの民だけに与えられているのではなく、主イエスが、油注がれ、洗礼をお受けになって、よき知らせをユダヤ全土で告げ知らせる方となり、、キリストによって始まった出来事を、大胆に説教する者に変えられている記事も、今日の福音につながる記事であります。
 今はまだ読んでいませんけれども、2017年に発表されようとしている新式文のときからは読まれることになります讃美唱の詩編は、今日は、詩編第29編であります。これもまた、大自然の激しい営みや、洪水をも統べ治めておられる主なる神をほめたたえる歌であり、この日に相応しいと言えましょう。
 今日の福音、ルカによる福音書第3章15節から、22節までを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、最初に、洗礼者ヨハネのことを、民衆は、もしかしたら、この人こそ、メシアではないかと、あれこれ考えていたと、出てきます。私が今でも覚えていますのは、今から30年近く前、京都から、三鷹の神学校に入る準備をしていたころに放送されていた「新約聖書のイエス像」といった題で、東京神学大学の松永喜久夫先生などによるNHK教育番組でなされていたシリーズでのひとこまです。『宗教の時間』という番組の中で取り上げられていたように記憶しています。
 それによると、生前に与えたその当時の世界への影響力は、主イエスよりも、洗礼者ヨハネのほうが、大きかったのではないかと言うのであります。
 そう言われてみますと、使徒言行録にも、使徒パウロが、伝道していく中で、洗礼者ヨハネの弟子たちと出会う場面があります。そして、彼らは、聖霊による洗礼を知らず、自分たちは、師であるヨハネによる洗礼を受けていると言います。しかしパウロたちに説得されて、改めて、主イエスのみ名による洗礼を受けると聖霊が、彼らの上にくだったという記録も記されており、洗礼者ヨハネの生きていたときの影響力は、もしかすると、主イエスの生前のそれよりも上回っていたのではないかと、今でも思うことがあります。
ずいぶん昔になりますが、そのときはまだ、神学書も、ギリシャ語の聖書もほとんど手にしたこともなく、ただ牧師になることを願って準備をしているときに見た番組で、今でも新鮮に、なつかしく思い出すのであります。
 それでは、キリストの受けた洗礼と、私たちの受けた洗礼、あるいは、洗礼者ヨハネから、洗礼を受けていた人々の洗礼は、どのように違っているのでしょうか。
 洗礼者ヨハネは、あなたが、もしかしたらメシアではないかと問われたときに、私より強い方がお出でになられる。私はその方の履物の紐を解くにも相応しくないと、はっきり答えます。主人の履物の紐を解くことは、当時のユダヤ人の奴隷すらもしなかったことだとも言われています。
 ヨハネは、そのように、自分は、来るべきメシアとは比べる価値もないと言い、私は水で洗礼を授けているが、その方は、聖霊と火において洗礼を授けると約束しているのであります。聖霊と火による洗礼とは、どんな洗礼であるのでしょうか。私たちは、父と子と聖霊のみ名によって、洗礼を受けていますが、見たところでは、洗礼者ヨハネがしていた、水を使っての洗礼である点では変わりはないと思います。
 では、聖霊と火における洗礼とは一体どのような洗礼なのでしょう。ヨハネは、この後、その方は、手に箕を持って、脱穀場をきよめ、穀物は倉へ収め、籾殻は燃え尽きない火で焼き払われると言っています。恐ろしい終わりの日の裁きをも予想させますが、聖霊も火も人を浄化し鍛え、選別し、あるいは、人々の中に分裂をももたらす力あるものであることを示しているでありましょう。主は、私は火を投じるために来たのだと言われます。
 ヨハネによる洗礼は、人を人として当然なすべきことをなすようにと悔い改めを促すものでありました。しかし、それは人を根本から変えるものではなく、ヨハネは人の罪を取り除く神の小羊ではなかったのであります。ヨハネはあくまで、そのお方のための道備えをする者であり、悪は悪として断罪する荒れ野に呼ばわる声でありました。
 そこで、それに続く記事は、順序正しくこの福音書を書くと宣言したルカらしくもなく、まだ先の出来事であるヘロデ・アンティパスの悪行が記されています。妻にしたヘロディアのことで、ヨハネに非難されたヘロデは、ヨハネを捕らえ、獄に送ることによって、さらに悪事を一つ増し加えたと書いています。それによって、ヨハネをいったん退場させて、主イエスの登場を浮き立たせているのであります。
 それでは、ここで何が起こったのでありましょうか。ルカは、ここで、民衆が皆洗礼を受けたとき、そして、主イエスも洗礼を受けた後に、祈っておられるときと、記しています。ルカは、主イエスの洗礼よりも、その後、起こったことを重視しているのであります。
 その時に成ったことには、天が開かれ、聖霊が、鳩のような肉体を持った形で、降ったとまず言います。黙示文学で、終わりのときに天が開かれることが出てきますが、この時にそれが起こり、聖霊が、しかも目に見える形を取って、主イエスに注がれ、力を付与されるのです。鳩は、ノアの箱舟のときの鳩のように喜びの到来をも、示していましょう。
 そして、天から声が成ります。これも黙示文学でしばしば見られます。天が裂けて、神ご自身がイエスに向かって語りかけるのです。
「あなたは、私の愛する子、私はあなたを大いに喜んでいる」と。詩編第2編7節では、「あなたは、私の子、今日、私はあなたをもうけた」という宣言が出てきます。主イエスが神の子であることを、神ご自身が認証なさっています。旧約聖書では、イスラエルの民が私の子とも呼ばれます。また、アブラハムは、その独り子イサクをまで神にささげようとしましたが、アブラハムの末に約束されていた救い、贖いとしての神の代理としての主イエスが「私の子」と呼ばれることによって、また、ダビデ王の家系につながるイエスをとしてここに実現しています。
 また、さらに、「私はあなたを大いに喜んでいる」との天からの声は、今日の第1朗読のイザヤ書第42章1節などの主の僕であり、苦難のメシアであることを示しています。そこで、主は私の僕を喜び迎え、その上に私の霊はおかれると記されています。このお方イエスは、メシアとして、決して弱っている葦を折ったり、灯心を消すことないと、天の父は、この時、宣言なさるのであります。
 主イエスは、天が開かれ、天からの声が起こる前に、民衆皆の一人として人知れず洗礼を一緒に受けてくださっていました。私たちの一員としてどこまでも低く身を低く、ヨルダン川の底においてくださいました。
 そのキリストの洗礼のあとに、天が開かれ、聖霊が降り、あなたこそ、神の愛する子、あなたを、私は大いに喜んでいるとの声が起こりました。祈っておられた主イエスをに聖霊がおおい、いと高き神の子、そして、待たれたメシアであることが、神のよって固められ、力に満たされるとのみ使いたちの預言が、この日、実現されたのであります。
 私たちは、このキリストを通して、そのみ名による洗礼を受け、同じ聖霊を受けているものであります。
 主の洗礼日の今日、キリストご自身が洗礼を受けた後に、天の父が、ご自分の一人子であり、私たちの罪を贖う代表であり、メシアであることを聖書の預言の言葉を通してお認めになり、喜ばれたという出来事を、私たちの受けた洗礼をも想起しながら、もう一度、この年の始めに感謝して、この一年を歩みだしたいと思います。お祈りをいたします。
 天の父なる神さま。
 新しく始まったこの一年の津田沼教会の歩みを、あなたが聖霊の力によって導いてください。何よりも礼拝に出席することを通して、周りの者たちへの証しをし、伝道する一人一人とならせてください。キリストによって、日々罪から解き放たれ、み言葉によるすこやかな生活をすることができますように。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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2016/01/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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