津田沼教会 牧師のメッセージ
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説教「闇に座す者に光が」(マタイ4:12-17)
マタイ4:12-17、2005・01・16、顕現節第3主日(緑)
アモス3:1-8、1コリント1:10-17、
マタイ福音書4章12節~17節
 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
 異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

「闇に座す者に光が」(マタイ4:12-17)
 顕現節の第3主日を迎えました。顕現節とは、神のご正体が、イエス・キリストを通して明らかになるときといった時期であります。顕現主日のマタイによる福音書2:1-12は、異邦人の占星術の学者たちに、救い主の誕生が知らされ、彼らが最初に礼拝しにくる出来事でした。また、先週の福音は、主イエスがガリラヤから洗礼者ヨハネのもとに来て、へりくだられ、神のみ心に従順となられて洗礼をお受けになられた出来事でありました。
 それに続く本日の与えられているマタイ福音書は4章の12節から17節までであります。
同じ顕現節ではありますが、本日用いられている聖卓やストールの色は、先週までの白から緑に変わっています。主イエスのご正体が明らかになる意味では同じでありますが、聖霊降臨後の主日に学ばれる主イエスの生涯になされたみわざや、語られた言葉に通じる事柄でもあり、本日からしばらく変容主日に至るまで、緑に変わるのでありましょうか。
 さて、本日の出来事は、主イエスが洗礼を受けたあと、40日間荒れ野で悪魔と戦われた出来事のすぐあとに続いています。主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられたことを耳にし、ガリラヤへと「退かれる」のであります。これは、難を逃れるという意味をも持ちますが、ここでは、そのような主観的な意味ではなく、ただ移られたというほどの意味でありましょう。紀元後29年のころに、ヘロデ・アンチパスの手によって、洗礼者ヨハネは命を落としています。ガリラヤも、ヘロデ・アンチパスの領域であったので、主が恐れて避難したということは当たっていないでありましょう。本日の箇所では、4章の17節が「その時から、」主イエスは、こうお語りになりつつ、宣べ伝え始められた。すなわち「あなたがたは、悔い改めなさい。なぜならば、天の国が近づいているからである」となっていまして、「その時から」というこの文章は、その前の節とつながるのか、「その時から」は、その後に続く18節以下とつながっているのかが問題になります。わたしたちの教会暦のペリコペーは、4章の12節から17節までの短い部分をひとまとめに考えており、「その時から」というのも、その前の節につながっていると考えられており、そのように解釈しても間違ってはいないでありましょう。
 同じ並行記事のマルコを見ますと、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』(マルコ1:14,15)となっています。マタイは、この短い2節の間に、自分が受け継いだ伝承を加えているのであります。
 洗礼者ヨハネが捕まるというのは、渡されるという言葉でもあり、それを転機として、主イエスが、天の国、天の支配を告知する時が始まった転換点となったことを示しています。そしてそれは、主ご自身の受難、すなわち、主が敵どもの手に引き渡される時まで続くのであります。
 主は、その知らせを聞くと、ガリラヤに退かれ、故郷のナザレをも後にして、カファルナウムに行ってそこに定住し、本拠とするに至るのであります。マタイは、これによって、旧約聖書、特に、イザヤ書の8章の23節から9章の1節の言葉が実現することになったと記しているのであります。そこには以下のように記されています。「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書8:23~9:1)。マタイは、あるいはそれ以前の、この預言の言葉を見出した人は、主イエスがカファルナウムに住むことによって、この預言者の言葉が、主イエスにおいて実現したことに、目を向けたのであります。
異邦人のガリラヤという言葉が出てきます。ガリラヤというのは、「周辺」「辺境」といった意味を持つ言葉だそうです。そして、その当時のユダヤ人たちはアッシリア人の侵入などにより宗教、人種なども混合していたガリラヤからは、預言者は出ないし、ましてや、メシア、救い主が現れることはないと、軽蔑していたのであります。しかし、マタイは、旧約聖書の預言をここに見出し、主イエスがカファルナウムを中心に活動なさったことを、深い神のご計画のうちにあったことだと考えたのであります。「暗闇に座す民に大いなる光が見え、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」、とマタイは引用しています。
 これは、異邦人を含めて、闇の中に座していたすべての人に、キリストの光がのぼったことを意味しています。神のご計画は、異邦人を通して救いが実現されることをマタイは、聖書を通して、わたしたちに向かっても語っています。そして「あなたがたは、悔い改めなさい。なぜなら、天の国は近づいているから」、と主は宣教の第一声をあげられました。ユダヤ人たちが軽蔑し無視していたガリラヤに主は戻られ、カファルナウムに居をすえて、ヨルダンの向こう、湖岸の東側などにも、宣教なさいました。主イエスご自身は、「イスラエルの失われた羊たちのもとに行きなさい」と弟子たちをユダヤ人に向けて遣わされましたが、神のご計画は、異邦人すなわち、全世界の人々にキリストの福音をのべつたえ、すべての民を主イエスの弟子とするように教えることでありました。
 私たちは、この顕現節に、「死の陰の地」に座している私たちのもとにおいでになられた主をまことの救い主、また、今も大いなる光としていただいている者であります。最初に、ヨハネが捕らえられるという言葉は、「渡される」と言う言葉でもあり、主ご自身が受難なさる言葉でもあることを、いいましたが、それは、神さまがみ子を私たちの罪のために、死に渡されることでもあります。しかし、私たちが暗い闇の中に座しているほかなかったところに、主は顕われてくださり、私たちが新しく希望を持って歩む道を備えてくださいました。
「あなたがたは悔い改めなさい。けだし、天の国、天の支配が近づいているから」と主はわたしたちに向けて、いわば「異邦人のガリラヤ」であるわたしたちの闇と死と罪におおわれていた現実の只中へと入り込んできてくださいました。神さまによって、この一年のわたしたちの生活がすみずみまで、支配されますようにと祈りもとめたいものであります。
一言祈ります。
天の父なる神さま。
この一年の初めのときに、主イエスが、異邦人のガリラヤにやってこられ、そこに生活の本拠を定められましたことが、あなたのご計画のもとにあったことを知らされました。わたしたちもまた、闇と死の陰の地に座り込んでいるような者であります。どうぞ、わたしたちのそのような中に、今一度、愛と赦し、忍耐をもってみ子をお遣わしになってください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン






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2005/01/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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