津田沼教会 牧師のメッセージ
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「二人の老人に示されたメシア」(ルカ2:25-40)
ルカ福音書第2章25節-40節、2015年12月27日、降誕後主日礼拝、(典礼色―白―)、エレミヤ書第31章10節-14節、ヘブライ人への手紙第2章10節-18節、讃美唱84(詩編第84編2節-13節)

ルカによる福音書第2章25節-40節

  そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、というお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」
 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれますー多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 また、アシェル族のファヌアルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年を取っていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。



説教「二人の老人に示されたメシア」

 降誕後主日となり、今は、正式には24日のイブ礼拝のときから、クリスマスに入っています。来年の顕現主日となりますその日まで、クリスマスが続きます。
 さて、今日の二人の人物、シメオンという言わば祭司のような、おそらく年老いた男の人物と、84歳にもなる女預言者が、主イエスの誕生後40日目くらいに、エルサレム神殿へ、両親が上って連れて行ったときの不思議な出会いと出来事が記されています。
 二人とも、イスラエル、あるいは、エルサレムが慰められる日が来る日を待ち望んでいる敬虔なユダヤ人たちであります。
 まず、シメオンは、敬虔で正しい人でありましたが、この主イエスが長男として奉献される日に、霊に導かれて神殿の境内に入ってきて、主イエスと出会うのであります。
 シメオンは、幼子イエスを腕に抱き、主よ、私は今こそ、御前を安らかに去ることだできます。なぜなら、私の眼は、あなたの救いを見たからですと、ルーテル教会の毎週の礼拝で歌う、ヌンク・デュミティスを歌い始めるのです。
 この救いは、もろもろの民のためにお備えになられたもので、異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光ですと。
 この喜びの歌は、しかし、この後、意外な預言へと移ります。驚いている両親に対して、さらに今度は、母マリアに向けて、この子は、イスラエルの多くの人を立たせたり、倒したりし、多くの者の反対を受けるしるしとなるであろうと、ある意味では不吉な、主イエスの十字架の死を予告する言葉を語るのです。
 しかし、それは、救われる者にとっては、救いの岩であり、滅びるべき者にとっては、躓きの石であります。さらに、マリアに向けて、あなたの心も、剣で刺し貫かれるでしょうと予告し、十字架上で主イエスが槍でわき腹を刺し貫かれることをも暗示したのであります。
 このときを同じくして、女預言者アンナが、現れます。彼女もまた、若くして、おとめ時代から7年だけ、夫と暮らし、しかし、その最愛の夫と死別し、84歳になっていた老女でありました。彼女もまた、熱心にエルサレムの慰めを待ち望み、神殿に通い続けて、嘆願と断食をしながら、礼拝に望みをかけてきた人で、この後、この子のことを人々に証し続ける者となりました。
 主イエスは、あなた方は幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできないと言われましたが、他方で、老人たちこそ、本当の信仰を育み、信仰の目で真偽を見分ける力に秀でているものであります。このクリスマスのよき訪れを、エルサレムの神殿で知りえたのは、この二人の老人たちであったのです。 両親は、ユダヤ教の敬虔な一員として、なすべきことをすまし、再びガリラヤのナザレへと引き返します。そして、イエスは成長し、恵みに満たされながら強くされつつあり、霊が彼に向かって、共にあったと記されています。この喜ばしいクリスマスのとき、この幼子において、救いを待ち望んでいたイスラエルの旧約の約束がここに成就していることを、私たちははっきりと見出すことができます。これからの一年を、この幼子と共に、恵みを見出す一年となりますように祈ります。アーメン。

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2015/12/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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