津田沼教会 牧師のメッセージ
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「世界の片隅に訪れた救い」(ルカ2:1-20)
ルカ福音書第2章1節-20節、2015年12月24日、降誕祭前夜礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第9章1節-6節、テトスへの手紙第2章11節-14節、讃美唱98(詩編第98編1節-9節)

ルカによる福音書第2章1節-20節

  そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。







説教「世界の片隅に訪れた救い」(ルカ2:1-20)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。

 皆さん、クリスマスイブ、おめでとうございます。皆さんにとって、この一年はどのような一年間であったことでしょうか。この2015年もまもなく終わろうとしていますが、今年も、さまざまな出来事があり、心を騒がせられる悲しい事件や紛争があり、世界は、また、日本は平和に向かっているというよりは、ますます不透明で、先の見えない歩みをしているように、思います。
 さて、今宵はクリスマスイブの礼拝をしており、これは、今から、少なくとも2015年以上も前に起こった、み子イエス・キリストのお誕生を祝う時を迎えているのであります。
 そして、実は、教会の暦では、むしろ、一年の新しい年を過ごしているのであります。
と言いますのも、今日は、白い聖卓の色、白いストールを、私も付けていますが、これは、クリスマスの色、神を表す色ですが、実は正確には、教会では、今年は11月の29日から、紫の色を使い、王を表す色であり、一年の教会の暦の上では、そこから、新年が始まり、アドベント、待降節として新しい年を、すでに出発しているのであります。
 先ほど、菊田女声の有志の方々に、歌っていただきました「久しく待ちにし」は、主イエスのご降誕を待ち望む賛美歌であります。
 そういうわけで、今日は、主イエス・キリストのお誕生を祝う礼拝であり、過去の一年を振り返ると言うよりは、新しい一年を、これからどう過ごせばいいのかを、考え、思い巡らす礼拝の時なのであります。
 与えられました福音、ルカによる福音書第2章1節から20節を、頼りに、主イエス、ご降誕の意味を、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、ルカは、その頃、これはもとの文では、「それらの日々に」となっているのですが、皇帝アウグスツウスのときに、シリアの総督がキリニウスのときの初めての人口調査が起こったと出てきます。
 ルカは、4人の福音書記者の中でも歴史に、相当忠実な記者なのですが、キリニウスがシリアの総督であったのは、紀元後、6~7年の頃とされています。皇帝アウグスツウスは、紀元前30年頃から、紀元後10数年まで、あのジュリアス・シーザー(カエサル)の後を継いで、皇帝となり、アウグスツウスの平和と呼ばれる、力によるローマ帝国を築き上げたような人物であります。ですから、この住民登録が、果たして、ここに書かれている通りだったのかは、疑いないわけではありません。
 しかし、このローマ世界での権力者の出した命令によって、ナザレに住んでいた、ダビデの家の出のヨセフと、婚約していた、しかも身ごもっていたマリアが、ガリラヤのナザレから、メシアが出ると預言されていたユダヤのベツレヘムへと導かれることになったと、ルカは記しているのであります。それは、ヘロデ大王の統治のときでもありましたから、少なくとも、紀元前4年以前のことでありました。そして、大勢のものが、自分の故郷へと向かっていきましたが、ヨセフとベツレヘムまで、来て、ついに、マリアは、月が満ちて、男の子の初子を産み、布でくるみ、産帯をして飼い葉桶の上に寝かせました。彼らには、その宿舎には、場所がなかったからだと記されています。
 他にも大勢、この村に戻ってきた者たちがいたからでありましょうが、そうお金持ちではなかった二人には、お産をするのには、この場所しかなく、これは馬小屋とも訳され、その宿舎の裏庭か、洞窟であったと想像する人もあります。
 先に、六ヶ月ほど前に生まれた洗礼者ヨハネは、ユダの山里で、人々が祝い、この子はどんな子になるだろうかと言い、父ザカリヤもベネディクトスという賛歌をうたい、それまで、父は、天使のお告げを信じなかったので口が利けなくなっていた、といった奇跡や、反響があったのに対して、非常に簡潔に、私たちと同じように、生まれ、そしてしかも、「飼い葉桶の上に」寝かされた事実だけが、語られています。
 
さて、しかし、この出来事は、思わぬ形で、ベツレヘムから、死海のほうに下る羊飼いの野と言われる地域で野宿をして、自分たちの羊の番をしていた羊飼いたちに、天使のお告げと言う形で知らされます。それは、ベツレヘムの出身で、サウルに代わって王となったダビデが、エッサイの七番目の末子として、羊の世話をしていたことにも、因んでいるのでしょう。私も、今から30年近く前、「出エジプトの旅」と題して、神学校に入って一年経った春休みに、モーセとイスラエルの民が辿った年の旅を、思い起こしながらの15日間の聖地旅行に行ったことを思い起こされます。ユダの荒れ野の、死海近くのエン・ゲディというダビデもサウル王の手を逃れて隠れていたところにできたホテルに一泊しました。その時の荒れ野で見た、あれほど、くっきりした大きな月を晴れ渡った夜に、散歩に出て見たのですが、それ以後も見たことはありません。
そういうところで、羊の番をしていた羊飼いたちのところに、主のみ使いがそばに立ったのです。そして、主の栄光が彼らの周囲を照りめぐらしたのであります。
彼らは大きな恐れを、恐れたとあります。すると、み使いは、「恐れることはない。私はあなた方に民全体にそうなる大きな喜びを告げる。今日、あなた方に救い主が生まれた。それは、ダビデの町における主、メシア(油を注がれた者、キリスト)である」と語るのです。しかも、さらに、こう語るのです。「これが、あなた方へのしるしである、すなわち、あなた方は、布に包まれて、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子を見るであろう」と。
大きな喜び、救い主のしるしは、飼い葉桶に寝かされた、私たちと同じ、母親の世話なしには生きられない弱く、脆い、低い身分となって生まれる男の子であると言うのです。
と、突然、天の軍勢が起こり、神をあがめ、賛美しながら、彼らが加わってこう歌い出すのです。
「栄光がいと高きところにおいて、神に。
 そして、地上で、平和が、ご好意の人々に。」
救い主誕生の知らせは、天使たちによって、局外者の羊飼いたちに、まず最初に知らされました。真っ暗な世界の片隅で、ローマの宮廷にでもなく、エルサレムの祭司や律法学者や都の人々にでもなく、また、宿舎にいた他の客たちにでもなく、ある意味では見捨てられた者たち、局外者であった羊飼いたちに、天使たちを通して知らされるのです。
栄光が天において、神に。そして、地上に、平和が、神のご好意の人々にと。神の輝かしいみ栄えが、天に顕され、そして地の上で、ご好意を受ける人間たちにあるというのです。
この平和は、旧約聖書が書かれているヘブライ語では、シャロームと言いますが、これは、はかない権力とか力によってもたらされる、たとえば、当時のアウグスツウスによる平和ではなく、神のご好意を受ける、神の喜びとされる人間たちの上にもたらされる救いであり、調和であり、神さまによって与えられるすこやかさとでも言えましょう。羊飼いや、世において見捨てられている人たちに限らず、思い煩い、しかしなお、神のみ心に適うように生きようとしている私たち、すべての者に、この日、神のもたらされる平和が与えられたのであります。

この天使たちが、奏でる賛美歌と共に、去ったとき、羊飼いたちは互いに言い合っていました。「主によって語られ、成った、この言葉、レーマ、出来事を見に、ベツレヘムへ行こうではないか」と。この言葉は、既に、成っている出来事であります。しかし、それを見に行こうではないかと、彼らは急いで、出て行き、探し当てるのです、飼い葉桶に布切れで包まれた嬰児と、マリアとヨセフとを。
そして、羊飼いたちは、そこにいた人々に、自分たちに語られた言葉と出来事とを告げ知らせるのであります。しかし、これを聞いたものはみな、不思議に思ったとあります。これは、昔の文語訳では、聞きし者は、皆、怪しんだと訳しています。彼らには、信じられなかったのであります。すなわち、神が人となられたのでありますが、そのしるしが、飼い葉桶であり、しかも、布切れで辛うじて命を守られている乳飲み子であることは、受け入れられなかったのであります。しかし、マリアは、羊飼いたちと同じように、信じることができたのであります。彼女は、それらの言葉、レーマ、成った出来事を、心のうちに宝物のように積んでいた、そして、それを、あれこれと思い巡らしていたのであります。
そして、羊飼いたちは、帰って行きます、自分たちに語られたとおりに、彼らが見、聞いたすべてのことの上に、神をあがめ、賛美しながら、であります。
私たちも、今宵、この羊飼いたちのように、主のなされた出来事・言葉を信じ、それを、周囲の人々に告げ知らせる証人として帰宅の途についたいと思います。
一言、祈ります。天の父なる神。あなたは、およそ2000年前、世界の片隅で、み使いを通して、救い主の誕生を、最初に羊飼いたちに知らされました。私たちも、今宵、この言葉、出来事を信じ、周囲の人々に告げ知らせる者としてください。キリストのみ名によって、アーメン。
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2015/12/24(木) 19:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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