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津田沼教会 牧師のメッセージ
「マリアの従順な信仰」ティモシー・マッケンジー牧師
日本福音ルーテル津田沼教会     
待降節第3主日、2015年12月13日                       
Luke 1:26-38 
説教者、ティモシー・マッケンジー 
    
「マリアの従順な信仰」
 
 皆さまの上にキリストの平安がありますように。
 皆さん、お早うございます。今日、津田沼ルーテル教会に於いて共に礼拝することが出来るのは、誠に喜ばしいことです。この礼拝の準備をされた皆様に感謝しています。またルーテル学院大学・日本ルーテル神学校よりご挨拶を申し上げます。皆様がいつも心厚く本学をご支援して下さることを心から感謝しております。
 さて、クリスマスが近づいて来ました。どこに行ってもクリ
スマスの飾りや音楽やグッズを販売しています。クリスマス会やプレゼントの季節に成りましたね。
 このような世俗のクリスマスの中で、教会は、待降節(アドベント)の第3主日に向かいます。教会の中でも、主イエスの降誕を迎えるために、色々なご準備をしていらっしゃることでしょう。例えば、教会の飾り、アドベント礼拝と様々な集会、クリスマス・コンサート、贈り物を用意すること、お菓子を焼くことなどです。クリスマスの準備の季節は本当に忙し過ぎるような気がする!
 ところで、Adventという言葉の意味は「顕われる」と言う意味です。キリストが顕われることを待つという意味です。このために日本語で「待降節」と言います。待降節の中で、主イエスを待つことがこの季節の目的です。
 しかし、我々は本当に待っていますか。我々は祈りや瞑想の内に主イエスの降誕を待ち望む時間をとっていますか。クリスマスの準備はバンバンしていますが、心の準備はいかがでしょうか。
 本日の福音書は忙し過ぎる私たちにマリアの例を見せて下さいます。マリアは神の言葉を信じて、身ごもって、救い主になるイエスを待ち臨みました。クリスマスは近づいてきました。そして、今日マリアが我々を思い出させて下さるのは、クリスマスに対して「信仰」が最も必要な心の準備ということです。
 恐らく、静かに待つことが現代のクリスマスの一番大きなチャレンジです。なぜなら、世俗した社会のクリスマスの過ごし方が私たちを引っ張るからです。しかし、近代のサンタさんやプレゼント交換やクリスマスケーキなどの時代の前には、「待降節」は復活祭の前の「四旬節」のような季節でした。中世の時代には待降節は悔い改めるための季節で、救い主の降誕を迎えるために、自分の罪と神の憐れみと贖いについて祈る季節でした。私たちの近代の世界は殆どこれを忘れています。
 今日の福音書の中心はマリアの信仰です。マリアが天使ガブリエルの予告を通して神の言葉を信じたからです。今日の福音書の中で、天使ガブリエルは言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの言葉は何のことかと考え込んだ。天使ガブリエルは言い続いた。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子を言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 ガブリエルの言葉は救い主を描きます。生まれる子は偉大な人となり、ダビデ王の王座から永遠に支配される。しかし、イエスは何の王になるのでしょうか。イエスは「平和の主」(テサロニカ二3:16)になるために、イエスの王座からはいつまでも平和が与えられます、
 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」当然の質問です。マリアの信仰は質問を聞くのを恐れません。これは私たちの祈りの生活に大きなヒントを与えるのではないかと思います。
 マリアの質問に対して、天使は言った。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる…神にできないことは一つもない。」ああ、なるほど、マリアが身ごもることは神の聖霊の力による出来事で、マリアの助けを求めている理由は「聖なる神の子」を産むためです。又、私たちの場合、神様に頼まれている時に、神様が私たちの力を貸して欲しい時に、私たちはどのように答えるでしょうか。
 マリアは天使ガブリエルの言葉を聞いてから次のように言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」この言葉はマリアの信仰を示している。
 さて、教会の歴史や伝統の中で、何でマリアが偉大な人物になったのでしょうか。その関係はマリアの従順な信仰が神の救いの計画と結ばれているからです。古代教会のわりと早い時期から、マリアはギリシア語で「Theotokos」(神を産む方)と賛美されていました。天地創造の最初の女性イブが神の言葉に背いて罪を犯し、人間の堕落となったのと反対に、マリアは神の言葉を信じることにより人間の罪と堕落を救ってくださるイエスを産みます。
 初代教会の431年に行われたエフェソ公会議でマリアは「Theotokos」(神を産む方)と定義されました。その理由は、マリアによって産まれるイエスは神と人間の両方であるからです。神の救いの物語の中で、マリアの役割は不可欠な役割です。そして、この理由で、アドベントの礼拝の中でマリアのことを賛美し、神に感謝するのです。
 毎日、信仰生活を送ろうとしている私たちにとって、マリアの従順な信仰の例が必要だと思います。神は権威や権力や経験強い人を通して救いをもたらしたのではなく、神はその当時には特に立場の弱い若い女性を選んだ。マリアの信仰は小さく見えるが、実に最も強い信仰なのです。世界の権威や権力や経験より強いのです。マリアの信仰が神の救いの計画を受け入れ、信じた。罪に堕ちた全人類への救いの道を開いたイエスを産みました。そして、マリアに産まれたイエスの十字架と復活によって、私たちは神の憐れみと愛を受けています。このために、2,000年後に私たちはまだまだマリアを覚えています。マリアはキリスト者の信仰の模範になります。
 そうであるから、小さくて弱い人間である私たちは、神の言葉に従順な信仰とはどのようなことを成し遂げられるのかをマリアの例を通して覚えます。教会の待降節の中で、最も忙しい季節の中で、私達はマリアとともに立ち、もう一度信仰の原点へ戻ろうとします。クリスマスを迎えるために、マリアの信仰をキリスト者の必要な心の準備として覚えるのです。若し、マリアとともに立てば、我らも、信仰が強められ、そして我らもマリアのように答えられます。「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身に成りますように。」アーメン。



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2015/12/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)