津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神が先ず愛された」(マルコ12:28-34)内海望牧師
マルコ福音書第12章28節-34節、2015年11月8日、聖霊降臨後第24主日礼拝、(典礼色―緑―)、申命記第6章1節-9節、ヘブライ人への手紙第7章24節-28節、讃美唱119/9詩編第119編73節-80節)

マルコによる福音書第12章28節-34節

 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。



説教「神が先ず愛された」(マルコ12:28-34)内海望牧師

 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 与えられた福音書の日課を通して、み言葉を聴きたいと思います。
 律法学者は、イエスさまに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と訊ねています。当時、律法は煩瑣を極めるようになっていて、613もの守るべき掟があったそうです。当時の人々にとって律法とは六法全書のようなもので、守るべき規則集であったのです。律法学者は、全部は無理でも、このうち一番大切な条文を守ろうとしたのです。それで、このような質問をしたのです。
 これに対して、イエスさまは、「全身全霊を尽くして神さまを愛すること。」と「隣人を自分のように愛すること。」、この二つが共に第一だとお答えになっています。イエスさまは、「規則を守ること」よりも「神と隣人を愛すること」が大切だとおっしゃるのです。
 イエスさまの答えの前半は、第一の日課である申命記6章からの引用です。これは、モーセの告別説教の一節です。そもそも、申命記そのものがモーセの旅を終え、いよいよ約束の地「乳と蜜の流れる」カナンの地を目前にのぞみ見て、モーセが最後の説教をしているのです。
 ここで私たちが感じるのは、確かにモーセは、ここで戒めと法を教えているのですが、その口調は感謝と喜びに満ちており、決して冷たい法律条文の解説のようなものではないということです。むしろ、モーセの口調は、40年に亘る出エジプトの旅を通して、また彼の全生涯を通じて、弱い信仰の持ち主であり、罪人である彼自身と民を決して見棄てず、最後まで導いてくださった神さまに感謝し、これからも、この方を全身全霊をもって愛し、従うことによって、きっと民は守られるという神信頼の告白なのです。モーセにとって、掟は、神さまが人間に与えて下さった賜物であり、滅びから守ってくれるガードレールであったのです。その事実を彼は、全生涯を通して学んだのです。モーセにとって律法は、誤った道に迷い込んだ時、それに気づかせ、正しい道を指し示してくれる道標であったのです。そればかりか、神さまは、常に先手を打って、私たちが及びもつかない支えを与えて下さったと10節以下で語っています。このような経験から律法を語るモーセの口調が感謝に満ちていることは当然です。モーセにとって、律法は、冷たい条文ではなく、神さまが、私たちを愛し導く恵みの賜物であったのです。モーセは、私たちでなく、神さまが先ず愛して下さったことを経験したのです。
 モーセと違って、律法学者は、彼を守り導いて下さる神さまの愛の働きに気付かず、条文の一つ一つを守ることによって神の国へ入る保証を得ようとしています。自分の努力によって、神の国の市民権を獲得しようとしているのです。ですから、掟の条文をしっかり守らなければ、神の国に入ることは出来ないのです。彼にとって、律法は、自分の運命を左右する関門でした。
 そこには、モーセが経験した感謝とか、喜びはありません。反対に、「きちんと守っていないではないか。」という不安、「神の国の住民になれないのではないか。」という恐れを感じさせるものでした。この不安から逃れるために律法主義者となるのは当然の成り行きです。つまり、他者批判に転じるのです。例えば、「私は週に一度断食しているが君たちはしていないから神の国から遠い。」などと他者を裁くために律法を利用するようになっていくのです。他者を貶めて自分を高め安心を得ようとするのです。
 私たちは、律法主義者を批判することは出来ません。私たちもまた「クリスチャンらしい」とか「らしくない」とか他者にレッテルを貼りがちです。その時、わあつぃたちもまた、律法を利用して人を裁くようになってしまうのです。恐ろしいことです。

 福音書の日課に戻ります。ここで私たちの心に起こって来る疑問は、イエスさまの言葉の後半、「神さまを愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」が、どうして同じなのかということです。イエスさまは、この二つは、「同じだ」とはっきりおっしゃっています。しかし、どうもしっくりしません。
 その謎を解く鍵は、イエスさまご自身の心中を推し量ることの出来る文章があります。
 今日の日課の少し前の10章32節を開いて下さい。本当に緊張に満ちた文章です。先ず、イエスさまは「弟子たちと共に」でなく、「先頭に立って」歩まれます。このイエスさまの姿勢に、イエスさまの強い決意を感じさせられます。イエスさまは、きっとエルサレムを見つめて、十字架への道を真っ直ぐに歩み始められたのです。その真剣さに、弟子たちは驚き、恐れすら感じたのです。事実、この数日後、イエスさまは十字架刑に処せられたのです。そのようなご自分の運命を見定めながら、イエスさまはエルサレムに入城されたのです。そこに極めて強い緊張感が働くのは当然と言えます。
 しかし、それにしても、なぜイエスさまは十字架で死ななければならなかったのでしょうか。それは、それが、罪人を救う唯一の道であったからです。
 聖書には、驚くべき言葉が多々あります。なかでも、「キリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な(私たちの)者のために死んで下さった。それによって、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5章6、8節)という言葉は、驚くべき、私たちの理解を遥かに越えるものです。「キリストは信仰深い者のために死んで下さった。」というのなら分かります。理にかなっています。しかし、「不信心な者(私たち罪人)のために死なれた」とは到底理解できません。しかし、イエスさまは、十字架上で、「父よ、彼らをお赦し下さい。」と自分を殺害する罪人への執り成しの祈りを祈りながら、罪人の罪をご自分の身に負って、息を引き取られました。イエスさまの愛は、私たちの因果応報的合理性を打ち砕く愛なのです。実は、モーセは、この罪人を愛する神さまの姿を、その生涯を通して経験したのです。40年に及ぶ出エジプトの旅で、民の罪深さはモーセを悩まし続けました。忘恩の民といってもよいくらいです。また、モーセ自身も再三神さまを疑い、反抗しました。しかし、それでも、神さまはモーセを含めて、民を愛し導いて下さったのです。「宝の民」として。(7章6節)。ここには、神さまの愛には「愛する理由」はない、ただ愛によって、私たちは罪赦され、救いが与えられたのです。新しい復活の命を与えられて生きて行くことが出来るのです。これほど素晴らしいことはありません。この出来事をヨハネは次のように語っています。(ヨハネ一4章10、11節.p445)。神さまが、先ず、イエスさまの十字架を通して、罪人である私たちを愛して下さったのだから、私たちも互いに愛し合おうとヨハネは勧めるのです。イエスさまの愛が、「神さまを愛し」、同時に「隣人を愛する」新しい人間を創造するのです。このようにして、神さまを愛することと、隣人を愛することが一つになるのです。
 律法学者は、エルサレムのイエスさまに出会うことにより、「供え物をささげる」などという規則、儀式を守ることより大切なことがあるということは学びました。ですから、「あなたは神の国から遠くない」という暖かい言葉をイエスさまから頂いたのです。
 さて、パウロは、「キリストはその兄弟のために死んで下さったのです。」(ローマ14:15、コリント一8:11)と繰り返し語っています。「その兄弟」とは教会内で誤った信仰、信仰の弱い人を指します。それでもパウロは、「どんな罪人でも、その人のためにキリストは死んで下さったのだ」と言い切るのです。これを、私たちは、「キリストに愛された人間の尊厳」と受け留め、大切にしたいと思います。その尊厳を大切にするのが教会の交わりなのです。キリストに愛されている者の喜びと尊厳が教会には満ちているのです。その愛されている喜びが泉となって隣人へと流れ込むのです。律法によって、命じられたから愛するのでなく、キリストの愛が、私たちを通して隣人へ流れ行くのです。この愛の源泉は、イエス・キリストによって明らかにされた神さまの理由のない愛なのです。

 人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

















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2015/11/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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