津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスよ、来てください」(ルカ3:1-6)内海望牧師)
ルカ福音書第3章1節-6節、2015年12月6日、待降節第2主日礼拝、(典礼色―紫―)、マラキ書第3章1節-3節、フィリピの信徒への手紙第1章3節-11節、讃美唱126(詩編第126編1節-6節)

ルカによる福音書第3章1節-6節

  皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リアニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」



  説教「主イエスよ、来てください~待降節に~」内海望牧師

 私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。

 今日は、与えられた三つのの日課を通してみ言葉を聴きましょう。
 私たちは、先週から待降節、主のご降誕・クリスマスを迎える準備の時を歩んでいます。ここで、改めて「クリスマス」とは何か、ということを考えてみることは大切だと思います。
それは、フィリピ書2章6節以下に明確に記されています。(p.363)
 クリスマスは、イエスさまが私たちを救うため、神さまの身分を放棄して(無にして)僕となり、苦しみ悩む人間世界の真っ只中に来られたという出来事なのです。イエスさまは、私たち人間の苦しみ、悲しみを共に分かち合うために、一切の尊厳を奪い取られた姿で十字架の死を経験されたのです。飼い葉桶と十字架はかけ離れたものではありません。従って、このアドベントの時期、私たちは歓びのハレルヤ唱を四旬節(受難節)に歌う詠唱に代えています。
 ルターは、このクリスマスの出来事を前にして、「どうして宇宙の創造主が、私たち人間の肉をまとい、私たちの悲しみを共に分かち合うほど人間を顧みたもうのか理解できない。」と、神さまの人知を超えた大きな愛に感動のあまり、言葉を失っています。
 「イエス・キリストがこの世を救うために来られた」というクリスマスの出来事は、これほど衝撃的な出来事なのです。
 ところで、私たちは、ルターから「神さまの前に立つ有機」を学びたいと思います。アダムとエバが神さまの命令に背いて木の実を食べて以来、私たち人間は皆、「隠れる者」、あるいは、「罪を隠す者]になってしまいました。「神さまと顔を合わせたくない」「知られたくない」と神さまを避けてこそこそと生きるようになったのです。人間同士も同じです。
 アダムとエバは、神さまの顔を避けて木の間に隠れました。木の葉で身を隠そうとします。ところが、神さまは、ご自分の方から、逃げ隠れる二人に近づき、「どこにいるのか」と愛をもって呼びかけて下さいます。神さまは、今、私たちにも同じように呼び掛けて下さっています。しかし、私たちは、アダムとエバ同様、この呼びかけを聞いて、ますます心を閉ざし、自分の本当の姿を隠そうともがき、自分の殻に逃げ込もうとするのではないでしょうか。
 しかし、ルターは、この神さまの呼びかけに対して、敢然と「はい、ここにおります。」と答え、主の前に立ったのです。勇気ある生き方です。しかし、危険な生き方でもあります。
 ここで、今日のマラキ書の日課を見ましょう。
 マラキは「あなたがたが待望している主は、突如、その聖所に来られる。」と語り、更に「彼が現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ」と。
 勇気をもって、「はい、ここにおります。」と神さまの前に立ったルターですが、そこで知らされたのは、自分の罪の深さでした。言い逃れるすべを失ったルターは「私の罪、私の罪」と叫んで倒れてしまいました。マラキが心配したように神さまの精錬する火に耐えることが出来なかったのです。ルターは、もはやあれこれの罪ではなく、全くの罪人でしかない自分を知り、絶望したのです。しかし、ルターは、それでもなお「主よ、来てください。」と深い淵から救いを祈り求め続けました。
 詩編130編はルターの特愛の詩です。(p.973)。彼はこの詩によって讃美歌史上に残る名曲を作詞、作曲したほどです。それほど口づさんだと言えましょう。
 「深い淵」という言葉は、「底知れない」という意味です。底知れぬ奈落の底に落ち込んでいる詩人は今、飢え渇くように必死に救いを求めているのです。ルターはこの詩人の姿に自分の姿を重ね合わせ、共に祈ったのです。

 「霊的飢餓」という言葉があります。私たちは、空腹になると食べ物を求めます。飢餓感がそうさせるのです。同じように、私たちは霊的な飢えを魂に持っています。「主よ、この声を聴き取って下さい!」という切実な祈りがあります。
 待降節(アドベント)とは、この詩人またルターと共に、「主イエスよ、来て下さい」と祈り求める時です。しかし、私たちは、そのような切実な思いで。「主イエスよ、来てください。」とクリスマスを待ち望んでいるでしょうか。

 誰の心にも霊的飢餓(祈り)はあります。しかし、正直言ってなかなか、それと向き合う時間がありません。日常生活というと、「退屈な、同じことの繰り返し」と考えられがちですが、実情は、次から次へと間断なく、思い煩いに追いまくられているのです。家庭のもろもろの事柄、育児、経済、介護、病気、近所づきあい、会社のこと等々、心を悩ます事柄が後を絶ちません。心の奥底に霊的渇きがあることを感じながらも、それを潤すことは後回しにしてしまうのが現実ではないでしょうか。
 私たちは、今日、待降節・アドベントというまたとない機会が与えられています。心を静め、赦しの恵みを祈り求める大切な時です。ヨハネは、「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ。」と語り、人々に「悔い改め」を促しています。聖書で、「悔い改め」という言葉は、単に犯した罪を暗い思いで悔むという後ろ向きの姿勢ではなく、積極的に、自己の心を、神さまに向かって「方向転換」させることです。それが、「道を整え、まっすぐにする」ことなのです。
 ルターは、大胆に神さまの前に立ちましたが、もっと大胆に、イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しを信じ、ヨハネの指さす方向に歩みを転換しました。その時、真の救いを経験することが出来ました。もはや、何者も自分をキリストにおける神さまの愛から引き離すことは出来ないという喜びを得たのです。私たちも、日々の歩みを方向転換し、イエス・キリストの十字架の愛に生きる喜びに与りましょう。
 イエスさまの生涯は十字架の死によって終わったのではありません。イエスさまは、復活し、罪と死の勝利者となられました。イエスさまの復活によって、私たちは、罪の赦しと新しい命に生きる喜びを与えられたのです。すべて赦されたのです。
 パウロは今日の日課で次のように語っています。フィリピⅠ章5、6節(p.361)。これは、キリスト・イエスを通してなされる神さまの業への信頼です。どんな神さまの御業に逆らう力が強くても、神さまの愛の業は必ず完成するという確信です。更に、方向転換することによって見えてくることがあります。それは、「人生で何が重要か見分ける力」です。これが「道を整え、真っ直ぐにする」ということです。
 いま、世界は騒然としています。無辜の命が正義の名のもとに殺戮され、憎しみの連鎖はとどまることがありません。心痛むことがあまりにも多すぎます。ともすれば、望みを失ってしまいます。
 しかし、幸いなことに、私たちは、イエス・キリストの愛のみ業を信頼することが出来ます。その信頼のうちに、「主イエスよ、来てください」(マラナ・タ)と祈る時、希望が与えられます。決して諦めることなく、イエスさまの愛に生き、その愛を伝えて行く勇気・力を与えられます。共に新しい一歩を踏み出そうではありませんか。そして、クリスマスを心からの喜びと感謝と希望の内に迎えようではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。







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2015/12/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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