津田沼教会 牧師のメッセージ
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「幸いなるかな、主のみもとに身を寄せる人」(マタイ5:1-12)
マタイ福音書第5章1節-12節、2015年11月1日、全聖徒主日聖餐礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第26章1節-13節、黙示録第21章22節-27節、讃美唱34/1(詩編第34編2節-9節)

マタイによる福音書第5章1節-12節

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害されている人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。








説教「幸いなるかな、主のみもとに身を寄せる人」(マタイ5:1-12)

 私たちは、今朝、全聖徒の日の礼拝をしています。そして、私たち津田沼教会では、主イエスを救い主として、信仰告白した信仰の先達ばかりではなくて、先に天に召された信徒の方々の両親や伴侶、兄弟等の方の遺影も、共に飾って礼拝をしております。その方々も、信仰の告白にまでは、故あって至りませんでしたが、残された私どもの信仰の歩みを見守り、み国から応援してくれていると、信ずるからであり、また、またそのご遺族の方々も、年に二度持っています、このような礼拝に出られて、故人の信仰の生涯に思いを馳せ、ご一緒に、主のみ言葉を聴けるように、津田沼教会では、特別に考えてのことであります。
 
この日、与えられている福音は、先程お読みしました、マタイによる福音書第5章1節から12節までであります。
 私たち、ルーテル教会では、この全聖徒の日、三年サイクルで、この個所が読まれます。讃美唱は、まだ礼拝の中では読まれていませんが、2017年の宗教改革500年記念以後に用いられる予定の新しい式文からは朗読される予定であります。それに備える意味でも、週報に、参照個所として載せていますが、今日の讃美唱は詩編34編2節から9節であります。
 今日読まれました第1の朗読のイザヤ書26章の1節から13節も、また、第2の朗読のヨハネの黙示録21章22節から27節も、そして、福音書の個所も、いずれも、自分の力で生きるのではなく、神の恵みに身をゆだねて生きる生き方をはっきりと、指し示している点では一致していると思います。
 
今日の福音、マタイによる福音書第5章1節から12節を通して、今日の福音を聞いていきましょう。
 主イエスは、今日の記事のすぐ前では、大勢の人々を癒し、教え、み国の福音を宣べ伝えておられます。そして、今日の個所から、主は、群衆に目をやりながら、山に登られ、お座りになると、弟子たちが近づいてきます。そこで、主は口を開いて語り始められます。

いわゆる山上の説教と言われている冒頭の部分であります。昔は山上の垂訓とも呼ばれましたが、現在では説教と言われるようになっています。むろん、叱ってお説教をするとか、道徳めいた教訓を垂れるというものでもありません。弟子たちへの、また、山上の説教の最後に出てくるように、群衆に向かっても、語りかけておられる慰めと励ましのみ言葉であります。信者たちだけではなく、今日集まっているすべての皆さんへの慰めと招きと言葉であるとも言えるみ言葉であります。
 
主は、もとの文ではこういうふうに語り出されました。「幸いなるかな、心の貧しい者たちは、なぜなら、彼らのものなのが天の国だからである。」これは、以下の文でも同様で、「マカリオイ・ホイ」と始まっています。祝福されているよ、以下の者たちは、「ホティ」なぜなら、こうだからだと、主は、詩文のように韻を踏みながらくり返して、説いていかれます。幸運だよ、以下の者たちはと感嘆詞で始まるのです。そして、ここに残されている言葉の多くは、実際に主イエスが口にされた言葉に遡ると、多くの聖書の研究者たちは言います。

 「心の貧しい人たち」というのは、霊でもって貧しい人と原文では訳せますが、これは、文字通り、貧しい人たちをも意味しますが、自分の力では生きていけない貧しさ、困窮、窮乏を身にしみて痛感している人たち、そして、それは、主イエスの教会に属し、迫害に耐えている一人一人を指しています。そして、その幸いである訳は、ホティ~という、なぜなら~だからであるという文体で、この8つ、ないし9つの至福、マカリオスは、記されているのであります。
 
そして、それは、心の貧しさ、悲しんでいる者、柔和な者、義のために飢え渇くといった人間の内面の状態から、次第に、憐れむ者、心の清い者、平和を造り出す者たち、義のために迫害されている者たちといった、積極的なふるまいの生き方へと高められていきます。主イエスの気持ちの高揚を伝えているのでしょうか。そして、神によって、将来、終末の時にはそう変えられるであろうという約束であると共に、今現在既に、弟子たちは、主イエスと共にみ国の支配のもとにあるとも、主は言われます。
 
「心の貧しい者たちは、幸いである、天の国は彼らのものである」とマタイは、記していますが、ルカ福音書では、「貧しい者は幸いである、神の国はあなた方のものである」となっています。これは、殆ど同じ内容を指していると言われますが、昔、京都教会で教会学校の教師を始めたばかりの頃、能勢で関西の教会学校でのキャンプに参加した時、思い出の聖句を木彫りにしようというプログラムが最後にあったのですが、私が担当した小学校3、4年の子供たちは、どうしても「心の貧しい者たちは幸いである、天国は彼らのものである」の方でなければならないと、押し切られたことを思い出します。

 マタイの方が主イエスの真意をより鋭く突いていることを、子供たちは、直感的に感じ取ったのでありましょう。
 ここに挙げられている8福あるいは9福という生き方は、これを語っておられる主イエスご自身の生き方そのものであり、そしてまた、それに従う私たちの生き方そのものでもあります。
 私たちは、自分の力や功績によっては生きていけないことを痛感させられるのであります。マルティン・ルターは、死を前にして、自分は貧しい物乞いにすぎないと言いました。み言葉を求め続ける、霊的な物乞いに過ぎない。これは、聖書に向き合うすべての人の偽らざる姿でありましょう。主イエスを信じて生涯を終えた、ここに遺撮が飾られているすべての聖徒の方々も、「心の貧しい者」として、自分を自覚し、罪に悩み、主の憐れみによってのみ生き得たのではないでしょうか。また、洗礼にまでは至らず、あるいは堅信礼にまでは至らなかった方々も、主のこれらの招きの言葉を聞きながら、それぞれの人生を精一杯歩まれたのではないでしょうか。

 悲しんでいる者は幸いである、彼らは慰められるであろうから。義に飢え渇いている者は幸いである、なぜなら、満たされるであろうから。柔和な者は幸いである、彼らは地をうけつぐだろうから。心の清い人々は幸いである、彼らは神を見るであろうから。平和を造り出す者は幸いである、彼らは神の子たちと呼ばれようから。義のために迫害されている者たちは幸いである、天の国は彼らのものだからだと、主は言われます。

 そして、最後の9番目の至福は、あなた方が罵られ、迫害され、私のためにあらゆる悪口を言われ、嘘をつかれながら、そうされるとき、あなた方は祝福されているよ、なぜなら、あなた方の前のすべての預言者たちにも、彼らは同じことをしてきたからと言い、あなた方は、喜び、大いに喜べ、天におけるあなた方の報いは大きいからだと主は言われます。

 主イエスの教会に属するということは、昔から、今に至るまで、形を変えた迫害に耐えるという生き方を余儀なくされます。主イエスその方が柔和な王として、お出でになられ、この世界の王とは異なり、柔和さ、貧しさにおいて生きられたお方です。それに従う弟子たちは、すべて同じ生き方を求められます。

しかし、その報い・報酬は、天において大きい、多いと主は約束なさるのです。終わりの日に、主を見上げ、仰ぎ、父なる神と子羊であるみ子がすべての人の涙を拭って下さると、今日のヨハネの黙示録にもありました。そこでは、すべての国民が新しいエルサレムの神殿へとやって来る。しかし、清くない者、忌まわしいことを行う者はそこへは入れないともありました。
 
主イエスの言われた、祝福されているよ、と言われる人たちの有りよう、心が貧しいこと、柔和なこと、義に飢え渇いていること、心が清いこと、義のために迫害されること、平和を造り出すこと、憐れみ深いこと、悲しんでいること、そして、主イエスのために、罵られ、あらゆる悪口を嘘をつかれながら言われることとは、主イエスご自身の有りようでありましたし、このような言葉を、私たちに向かって語ることのできる人は、主イエスをおいて、他にはおられません。なぜなら、主はこれらの言葉を、弟子たちに、また、群衆に語られたのち、十字架に付けられ、そしてよみがえられた方であるからであります。
 ご自分の死によって、ご復活によって、これらの言葉を成就されるのであります。
 
全聖徒の日に、この個所が与えられているのは、今日のみ言葉は、すべての人が、この言葉を聞いて慰められ、すでにみもとに召された人々の信仰、生きざまを思い起こすと共に、地上に残されている私どもすべての者が、このみ言葉に従った生き方をするようにと、改めて奮い起こされるためであります。
 
私どもは、だれもが義のために飢え渇いている者ではないでしょうか。与えられた命を、一回しかないこの地上の生涯をだれしもが生きてきてよかったと言えるものにしたいのであります。しかし、罪のためにそれができなくなっていると説くのが聖書であります。義とは、ここでは正しいふるまいと言えましょう。私たちはそれに飢え渇いているのであります。しかし、それができないことを、私たちは悲しむのであります。しかし、主イエスが、十字架と、ご復活を通して、満たしてくださったのであります。

そして、そのような正しいふるまいを、追い求めて生涯を歩んだ先人たちを、私たちは知らされています。内村鑑三先生もその一人でありましょう。天皇陛下を拝まなかった有名な不敬事件はその一つの出来事であったでありましょう。主イエスが十字架を通して、これらの幸いな生き方を約束して下さいました。

その意味ではすべての聖徒が、この幸いな、主のみもとに身を寄せる生き方をしてきたとも言えるのであり、私どもも、この幸いなる8福、あるいは9福の生き方ができるのであります。
 
自分の功績や力に頼っては生きることのできないことを、主イエスの弟子たちは痛感させられていたことでしょう。そして、この福音書が書かれた時代、マタイの教会の人々は、特にユダヤ教の人々によって、主イエスのために、罵られ、迫害され、嘘をつかれながら、あらゆる悪口を言われる中で、主の祝福の言葉、あなた方は喜べ、大いに喜べ、天におけるあなた方の報いは、大きいという言葉によって、信仰を守る力と勇気を与えられていたことでしょう。そして、その励ましは、2000年経った今も、変わることなく続いているのです。
 
この8福、あるいは9福と言われる幸いは、それに私たちが、命をかけて従ってゆくべき、まさに至福というべきみ言葉であります。それらの幸いのどれかひとつに自分は当たっているので安心できるといったものではありません。私は、平和を造り出すような者として、神の子とはとうてい呼ばれるには値しないが、しかし心は比較的清い方だろうとうぬぼれることができるようなものではないのです。
 
その一つ一つの幸いのみ言葉は、それぞれ、まことに豊かなみ言葉でありますが、煎じつめて言えば、心の貧しい人は幸いだよ、天の国は彼らのものであるからとの最初の1節に要約することもできましょう。

そして、この心の貧しい人とは、主イエスご自身のことであるとも言えるのであります。これは、最初に言いましたように、文字通り貧しい人をも意味し、虐げられて生きていたイスラエルの心ある民やまた、霊において貧しい者である故に、神により頼んで生きるしかない者たちであり、「柔和な人たちは幸いだよ」の「柔和」とも同じ語源から来ていると言います。

私たちは、神にに寄りすがらなければ生きてゆけない貧しい者であります。そのような「貧しい者」に主イエスがなってくださったのであります。そして、「柔和な」王として、十字架について、まことのやさしさを私たちに教えておられるのであります。
 
今日のこの全聖徒の主日の礼拝を、私たちは、「幸いなるかな」のみ言葉によって守りました。これから、聖餐に与ります。終わりの日に祝うべきキリストの体とその尊い血を頂く祝宴を、先に召された聖徒たちと共に与ります。私たちの残された生涯を、主のみ言葉と共に歩みえます幸いを感謝しつつ、生かされてまいりましょう。


祈ります。

天の父なる神さま。先立たれたすべての聖徒の方々と共に、また、主と告白するには至らなかった方々をも覚えて、ご遺族を招き、ご一緒に主のみ言葉に耳を傾ける幸いを感謝いたします。どうか、残された私どもが、主の約束のみ言葉に従って、生涯を貫くことができますように助けてください。そして、主があなた方は幸いだよと言われる信仰の歩みをまっとうさせてください。キリストのみ名によって、アーメン。 










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2015/11/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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