津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神さまの憐れみールターによるパウロの再発見」(ローマ3:19-28)
ヨハネによる福音書第8章31節-36節、2015年10月25日、宗教改革主日聖餐礼拝、(典礼色―赤―)、エレミヤ書第31章31節-36節、ローマの信徒への手紙第3章19節-28節、讃美唱46(詩編第46編2節-12節)

ローマの信徒への手紙第3章19節-28節

 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者とによって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 
 



説教「神さまの憐れみールターによるパウロの再発見」(ローマ3:19-28)
 
 ルターは、修道僧として厳しい戒律を守り、恵みの神を求めて自分を律していましたが、自分を恐れさせる裁きの神しか出会うことができないでいました。その聖書との格闘の中で、ローマの信徒への手紙第1章17節の「正しい者は信仰によって生きる」のみ言葉を見出し、信仰のみによって義とされるのであり、行いは決して人を義とするものではないことを知らされたのであります。
 今日の日課、ローマの信徒への手紙第3章19節から28節までから、み言葉に聞いていきましょう。これは、聖書の区切り方が新共同訳とは違っています。第3章19節から20節までと、第3章27節から28節までとが言わば、付け足されています。
 少し前の部分から読むと、すべての人は罪の下にあると、パウロは語り、神を求める人は、地上に一人もいないと詩編などを引いて、断言しています。
 私どもは、いや、地上には、立派な人はいるのではないかと思いがちですが、聖書は、すべての人は、口と足とで罪を犯し、それに染まってしまっていると言っていると、パウロは断言します。
 そして、全世界は神に対して有罪であり、律法によって、すべての口は閉じられると言います。
 しかし、ルターは、今日の日課、この聖書の部分に救いを見出し、その改革者としての出発点を見出したともいえるでありましょう。
 「ところが、今や、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証言されながら、神の義が、知らされたのである」と。それは、イエス・キリストという贖いとその供え物を通して、罪が赦されるということ、ただの贈り物として、キリストを十字架に付けて、私たちの罪が赦されるということを通して、神の義、神が遣わされた義、神が正しいお方であることが明らかにされたということであります。
 私たちは、アダムの堕罪以来、神の栄光を受けられなくなっているが、ただイエス・キリストへの信仰を通しての贖いを通して、贈り物として、無償で、私たちは義とされるのであります。
 今まで、神は忍耐して、私たちの罪を見過ごしておられたが、イエスへと信仰する者を通して、自分が正しい方であることを証明されるのであります。
 私たちの誇りは、キリストを信ずるところにのみあり、自分たちの行いにはなく、信仰を通しての法則、信仰を通しての律法にある。
 私たちは、誇るとすれば弱さを誇るのであります。なぜなら、信仰によって、律法の行いなしに、義と宣言されるべく、私たちは認めるからであります。
 神は罪をどこまでも罪として問われるお方であります。私たちは、神をどこまでも神とすることを、神はお求めになるのであります。
 神はそのためにイエス・キリストを十字架の死に付け、贖いの供え物とされ、償いの供え物とされたのであります。
 私たちの行いが、私たちを義とすることはあり得ないのであります。キリストへの信仰が義とする。
 そこから、まったく新しい生き方だ生まれてくる。そのパウロの信仰の再発見が、改革者ルターを誕生させたのであります。
 行いの律法ではなく、信仰の律法、信仰の法則を通して、神のみを誇りとし、自己への誇りは取り除かれたのであります。
 2017年10月31日、改革500年記念を前に、み言葉との取り組み、信仰により義とされるに立ち帰りつつ、絶えず改革が進められなければなりません。アーメン。

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2015/10/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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