津田沼教会 牧師のメッセージ
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「全能の神に安らぐ」(マルコ10:17-31)梅田與四男牧師
マルコによる福音書第10章17節-31節、2015年10月18日、聖霊降臨後第21主日聖餐礼拝、(典礼色―緑―)、アモス書第5章6節-15節、ヘブライ人への手紙第3章1節-6節、讃美唱119/8(詩編第119編65節-72節)

マルコによる福音書第10章17節-31節
 
 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」


説教「神の全能に安らぐ」(マルコ10:17-31)梅田與四男牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがありますように。

 <富める青年>(マタイ19:20参照)と呼び習わされてきたこの物語は主イエスによって説かれた「財産」に関わるキリスト者の態度と生き方を示しています。23節の「財産」という言葉は「富」「金銭」「金」とも訳されますし、25節には直接的に「金持ち」という言葉が現れているため、問題の事柄は何かは明らかです。ただし「青年」という言葉はここには現れません。しかし大切なのは、新共同訳では訳出されていませんが、「道」という言葉がこの物語のはじめ17節に現れており、さらに32節にも「途中」と訳出されて現れているだけでなく、そもそも8章27節や9章33、34節にもくり返し現れて、主イエスが「エルサレム」への旅の途上にあることをくり返し示していることです。
 このことは「弟子たち」と同じく私たちキリスト者の信仰生活にも重なります。私たちも主イエスに従う「道」の途上にあるからです。それゆえ、この世にある限り、誰も無関係ではいられない問題として、お金や「持っている物」とどう関わっているかが私たちへの問いに付されることになります。その関わりにおいてキリスト者は「信仰」以前と以後とで転換が起こされるし、それゆえまた求められもするのですが、はたしてその実態がどうか、あらわにされることになるからです。

 この物語は、まず「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という当時のユダヤ人らしい「ある人」の問いとそれに答える主イエスとの問答と結末を伝え、それを目の前の具体例として主イエスが続いて「財産」をめぐり「弟子たち」に教えを説かれるという展開になっています。「永遠の命」の受け継ぎ」という信仰者ならではの問いが「何をすれば・・・」という<行為>の問題とされ、十全な<行為>を自認しながらも確信を得られないユダヤ人らしい問題があらわになります。
 この実例を他人ごとに思えるとしたら、ユダヤ人の<律法主義>への批判によってその逆に振れ過ぎているあの<安価な恵み>という問題に陥っているかもしれません。「富」を失う危機を経験したことがあるなら、いつの間にかどっぷりつかっている「富」への執着がいかに激しく強いものか、主イエスの招きの言葉によってあらわにされたことがおありでしょう。ユダヤ人に「律法」がるように私たちキリスト者にも、「福音」のゆえに新たに「律法」が働きかけてくるからです。
 「律法」はひとり人間を「神」の御前に立たせます。主イエスが「善い先生」という自分への呼びかけをあえて問題になさったのはそのためです。登場する「ある人」は「富」がユダヤ人一般のあいだで神の祝福と見なされ、自ら「掟」を「子供の時から守ってきました」と自認できたとしても、「永遠の命を受け継ぐ」確信を得ることができませんでした。<律法主義>に囲まれて、「神」の御前にひとり立って与えられた「子たる身分」(口語訳:ローマ8:15、23、9:4、ガラテヤ4:5、エペソ1:5)を見失っていたのではないでしょうか。

 「受け継ぐ」とはまさしく、自分が「何」を“する”ことによってではなく、自分が「何」“である”かによって可能とされる事柄だからです。<行為>ではなく<存在>の問題なのです。それゆえ、この「ある人」「あなた」は、「神」を「父」と呼ぶ関係性を見失っているとしか言えません。「富」「財産」「持っている物」は、「神」への絶対的な依存関係を蝕み、「天におられるわたしたちの父よ」と呼べるようにしていただいた養子縁組を見失わせてしまうほどのものだからなのです。
 主イエスはこの「人」に全「財産」の売却や「貧しい人々」へのすべての「施し」を命じられたわけではありません。主イエスへの随順、「弟子となる」ことが、「天におられるわたしたちの父」との関係の回復になるからこそなのです。「財産」への執着と「神」への絶対的な依存とは、まるでシーソーのような関係にあるのだからです。一方に傾くなら、他方は失わざるを得なくなるからです。この世で通じる価値は「天」には通じません。限定的なのです。限界的にとどめ置く力、それが、「神」への依存なのです。
 「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)という主イエスの教えは、なるほど「神」と「富」との二律背反を説いています。それはなぜでしょうか。人間は「富」を「神」と並ぶ価値にするからです。「富」は「神」に並ぶ価値であるかのように思わせる力を持つからです。欺きなのです。「富」本来の限定的な価値にそれにふさわしくとどめ置く、それが、主イエスに従う「弟子たち」の「道」なのです。

 ところが、前半の物語に続いて、主イエスはその「弟子たち」の教育へと転じられます。開口一番、彼らに告げられたのは、「財産のある者が神の国へと入るのは、なんと難しいことか」でした。これに「驚いた」「弟子たち」の反応に追い打ちをかけるかのようにほぼ同じ表現をくり返し、そして言われます、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。「針の穴」についていくつかの解釈がありますが、この表現は、恐らく身ひとつなら何とか通ることができるというものではなく、どだい無理なことだという不可能性を絵画的に理解させるものなのです。
 この表現に対する「弟子たち」の反応が、当時のユダヤ人一般の理解をよく表わしています。「たくさんの財産」こそ「神」の祝福なのではないか、それにあずかる「金持ち」こそ真っ先に「救われる」のではないか、その「金持ち」が「神の国に入る」のは不可能とは・・・。「それではだれが救われるのだろうか」となったわけです。したがって主イエスの申されようは、「救われる」のは「金持ち」さえ不可能なのだから、おしなべて「人間にできることではない」のだということになるのです。
 この「人間」の不可能の対極として明言されるのが、主イエスにおいて「神」は「できる」です。「神」の全能性にかかっているからです。したがってこれに対応し得るのは、人間の(行為)ではなく、「神の子にする」という身分の変化による新しい人間の<存在>なのです。私たちはそれをただ主イエス・キリストにその贖いという「信仰」に見ています。だからこそ主イエスに「従って」<いる>のです。私たちはその「道」に<いる>のです。」

 物語はしかし、「弟子たち」に対する主イエスのどんでん返しの、まったく思いがけない警告の言葉で結ばれます。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。なぜなら、「弟子たち」は誇らしげに言うからです、「気を落とし、悲しみながら立ち去った」「ある人」を遠目に見ながら、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と。なるほど主イエスはその犠牲に対する報いを約束されます。しかし考え違いをしてはなりません。それらもやはり「受ける」のであって、勝ち取り、獲得するものなのではありません。
 犠牲と服従が、「道」の「途中」で自分の<行為>になる、<業績>になる、そういう考え違いが起こり得るのです。「恵み」で一貫しない「信仰」になり得るのです。他者と比較せずにはおれなくなり、その上でしか自分を評価できず、あれこれ自慢したり卑下したり批判したり陰口するようになるのです。「神」の御前にひとり立ち、ただ主イエス・キリストにおいてのみ与えられた「子としての身分」という「恵み」の賜物を見失っているからです。
 「道」の「途中」で大切なのは、まさしく「神」の全能にのみ信頼して安らぐ歩みです。私たちの「救い」はただ「神」の自由な「恵み」にかかっているのだからです。その「信仰」に立っているのなら、自分の<行為>を数える必要はありません。ただ「恵み」に感謝し、喜んでさせていただいていることなのですから。惜しんで数えながらしていることではないのですから。

 <教会暦>のこの<期節>、まさしく<終末>に向かうキリスト者の基本的態度と行動が主題として語り聴かせられる時期です。それは「道」の途上にあらわになる「弟子たち」の内心の在りようです。そこでは、前進だけではなく、退歩も起こります。成長のみならず、退行もあります。それに気づかないまま、前進や成長と錯覚してしまうことがあります。ここで語られた主イエスの御心を真摯に深くくみ取るなら、私たちは自分たちが「恵み」に依らないで何も「できることではない」のだという不動の事実を受け取るほかありません。
 「オックスファム」というNGOの報告によれば、昨年の世界で最も富裕な80人の資産額は1兆9000億ドルで、59%の35億人の資産に匹敵しただけでなく、来年には、世界の最も裕福な上位1%の人々の資産総額が、残り99%の人々の資産を上まわる可能性があるということです。日本の経済的格差の拡大も連動しているのではないでしょうか。
 ヨーロッパ中世における偉大な神学者トマスが「もはや、『わたしには金や銀はない』と言わなくてもよくなった」と言うローマ教皇の言葉に対して、「その通りですが、『持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』とも言えなくなりました」と返したと聞いたことがあります。「神」から与えられて「持っているもの」は何か、この物語は、それを私たちに問いかけています。

祈り:主よ、不安な人々、悲しむ人々、貧しい人々に寄り添い、差し上げることのできる、「持っているもの」がある、そういう「弟子たち」の一人にしてくださったことを感謝いたします。「福音」の「自由」にいまこの時代で精一杯生かしてください。主の御名によって祈ります、アーメン。
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2015/10/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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