津田沼教会 牧師のメッセージ
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「寄りかかり、仕え合う家族」(マルコ10:1-16)
マルコによる福音書第10章1節-16節、2015年10月11日、聖霊降臨後第20主日礼拝、(典礼色―緑―)、創世記第2章18節-24節、ヘブライ人への手紙第2章5節-9節、讃美唱128(詩編第128編1節-6節)

マルコによる福音書第10章1節-16節

 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は話してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。





説教「寄りかかり、仕え合う家族」(マルコ10:1-16)

今日の第1朗読の創世記では、神がご自分の像に似せて人間を造られ、男と女とに造られました。しかし、人が一人でいるのはよくないと言われて、必要な助けを、人に与えようとされます。そこで、多くの生き物、空の鳥や野の獣などを造られ、人がそれに名を付けますが、それらの生き物には、神は命の息、霊をアダムの場合のように、鼻から吹き込むことをなさらなかったので、人に必要なパートナーとはなりえませんでした。
 そこで、神は、人を眠らせ、そのあばら骨の一つから、女を造り出します。男は、これこそ、私の骨の骨、肉の肉と呼び、互いに向き合って生きる、救いへの助けを見出すというのであります。私どもは、一人で生きていくべき者としては、造られておらず、男と女とが支え合って生きるように、もともと創造されているのであります。

 さて、第2の朗読で読まれましたヘブライ人への手紙では、その著者は、「あなたが顧みて下さる人間とは何者なのでしょう」と問い、神は天使どもの栄光を求められるのではなく、人間を救うために、人の子を遣わして、天使どもよりも、わずかに劣る人間のかたちを取らせ、私たちの罪のために、死の苦しみを味わわれ、復活させられた後、天の父のもとに帰らせたと、その信仰を告白しています。

 因みに、今日の讃美唱、詩編第128編は、主を畏れる者はほめたたえられよと歌い、その家族は栄え、その人の妻は、家の奥にいて、ぶどうの木のようであり、その子らは食卓に集い、オリーブの木のようであると賛美し、睦ましい家族の姿で描写されています。

 今日の福音は、先週の個所に続く、マルコ福音書10章1節から16節であります。十字架を目指す主イエスは、先週のカファルナウムの家への立ち寄りから、出立してユダヤの地方、あるいはその境界線、そして、ヨルダン川の向こう側へとやっています。なぜ、エルサレムにより近いユダヤの地方が先に書かれているのかはよく分かりません。
 
しかしヨルダンの向こう側とは、ペレヤ地域を指し、ヘロデ・アンティパスの支配領域であります。洗礼者ヨハネが、ヘロデと、フィリポと離婚してその妻となったヘロディアの再婚は、律法で認められないと非難し、それがきっかけで、洗礼者ヨハネは捕らえられ、さらには処刑されることにもなったのであります。
 
このペレヤ地方に入って来られるのでありますが、この切迫した十字架にお向かいになる主イエスのもとに引き寄せられるようにして大勢が群がってやって来ます。そして、この段階になられても、主イエスは、いつものように、彼らに教え始められるのであります。
 
しかし、今日の出来事の中でも、弟子たちは未だに、主イエスの教えを十分に理解できるどころではなく、その真意がつかめないでいる状態を続けています。これは、今の私たちにとっても言えることであり、主の十字架と復活のあとになって、弟子たちははじめて、主のお言葉が理解できるようになるのであります。

 既に、ガリラヤを後にしての十字架を目指しての途上にありながらも、主イエスは、私たちにとっての、身近な、しかし、より一層、深刻な問題、夫婦のあり方や、子供の存在、あるいは、財産やお金の問題といった、生きていく上でだれもが直面する問題について、み言葉を述べられるのであります。十字架と復活という出来事は、私たちの身近な生活と深いつながりがあることを、主は示しておられるのであります。

 さて、この場面で、かのファリサイ派の論敵たちが登場して、主イエスに質問しはじめ、しかもそれは、主イエスを試みるためでありました。主イエスを何とかして罠に陥れようと目論んでの質問でした。
 そもそも、人が妻を離婚することは認められているのかと、問うてきたのであります。
 それに対して、主イエスは、モーセは何と命じたかと反問なさいます。論敵たちとも、また、弟子に対しても、主イエスは、ルターの小教理問答のように、質問をし合いながら真理を教えられ、目を開いて行かせられるのであります。
 
そして、彼らは、申命記24章1節を基に、「モーセは離縁状を書いて、妻を去らせることを許しました」と答えます。主イエスはそれに応えて、それは、あなた方の心がかたくななので、モーセはそう書いたのであると説かれます。ファリサイ派のあなた方のその頑固な心に向かって、反対しながら記しているのだと言われ、神のみ心の本意はそこにはないと、彼らの考えを打ち消されるのです。
 
そして、今日の第1朗読の創世記の記事の中から、今度は結婚とは何なのかをと説かれます。すなわち、創造の初めから、神は人を男と女とに造られた。それ故、人はその父母を後にして、妻と結ばれる、これは、夫は、誠実に妻に向かって献身させられるであろうという意味です。
 それゆえ、彼らはもはや二人ではなく一体であり、一つの肉である。いわば一人の人間であり、従って、神が合わせられたものを、人はばらばらに引き離してはならないと断言なさったのであります。

そして、神が、結婚を定められたのは、創造の秩序であって、神のご意志は本来、離婚を欲しておられないことを明言されたのであります。しかし、この主イエスの一見厳しいみ言葉は、神の恵みへの招きの言葉であります。

弟子たちは、マルコがよく使っているように、ここでも家へと入り、更に質問していました。すると、主イエスは、これにも答えて言われるのです。夫が妻を離縁して別の女と結婚するならば、もとの妻に対して姦淫の罪を犯すことになり、女ももとの夫を後にして別の男と結婚するならば、姦淫の罪を犯すのであると。

当時、ユダヤの社会では、夫が、夫を持つ別の婦人と関係を持った場合には、その相手方の夫に対して姦淫の罪を問われたのでありますが、主イエスは、自分のもとの妻に対して姦淫の罪を犯すのだと言われ、また、妻も夫と離婚して、再婚する場合も同様であると言われたのであります。
ヘロディアの場合、ヘロデの腹違いの兄弟フィリポに対して、自分から離婚して、ヘロデと再婚しても、姦淫の責めを負うのであり、本来離婚を認めないのが神のご意志であると、弟子たちには更に厳しく教えられ、その姿勢で主の十字架に従って来るようにと招いておられるのであります。現代では、離婚は昔以上にしばしば起こる問題であり、内村鑑三先生なども再婚されていますが、主イエスは、夫婦は互いに向き合い、責任を持ちあいながら、一体の関係として、互いに欠けを補い合いながら、仕え合っていく存在として、神だ定められたものであることを、今一度思い起こしたいものであります。

さて、今日のペリコペーは、さらに、10章13節から16節まで含められています。「そして」人々が、子供たちを、主イエスに触れていただくために連れて来ていたと続くのであります。
この子供たちというのは、乳飲み子から、13歳、14歳くらいまでをも含む言葉であります。力ある預言者、有名な教師であった主イエスのところに、せめて触れてもらいたちと願った母親たちが主であったとも考えられます。

ところが、弟子たちは、彼らを非難するのであります。すると、これを御覧になった主イエスは、お怒りになり、子供たちが私のところに来るのをそのままにさせておきなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちに属するからと言われるのであります。ここでも、弟子たちは、主のご意向に反し、そのみ言葉が理解できないである姿を露呈しているのであります。福音書の中で、主がこのように激しく怒られるという言葉はここにしか出てきません。

そして、主イエスは、アーメン、あなたがたに言っておくがと特に強調して、ここで言われます。子供のように、神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできないと。
この子供のように、とはどういう者を指しているのでしょうか。その当時、子供たちは、周辺に追いやられていた存在であり、5000人の給食の奇跡においても女と子供は数に入れられていませんでした。ある学者によれば、当時は家族の中で、その生命も受け継ぐべき財産も父親の意のままにされる、力弱く低い存在で、まったく父に依存して生きるほかはない存在でした。
まさしく、神の支配は、私たち人間の力や功績、影響力によって手に入るものではなく、まったく神からの贈り物、恵みとして与えられるのであり、弟子たちは、すぐ前の個所でも、自分たちの内でだれが一番大きいかと争っていましたが、神の国は、そういう者たちに与えられるのではなく、まったく周辺にいると思われていた、小さな子供たちにこそ、彼らへのプレゼントとして与えられるものであることを、主イエスは、再びここで示されました。
さらに、主イエスは、母親たちの願った以上のことをここでなさっています。それは、彼らを抱き上げた後、手を置きながら、祝福なさるのであります。一人一人を抱き上げて、その頭に手を置いて祝福なさる。この短い箇所は、幼児洗礼がその当時に守られていたことを暗示しているとも言われます。
いずれにしても、今日の福音の記事は、神の恵みのもとにある夫婦、子供を、主イエスが祝福なさっておられることを示しています。そして、家族が寄りかかり合い、互いに仕え合う生活へと招いておられます。

祈ります。
イエス・キリストの父なる神さま。
あなたより与えられている妻や子供があなたの恵みとして与えられていることを感謝します。夫婦が、互いに神から与えられた者として仕え合い、また、私どもが子供のように
あなたに身をゆだねつつ、あなたのみ旨の近くにあって、あなたに招かれ、祝福された生涯を歩ませて下さい。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
 

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2015/10/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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