津田沼教会 牧師のメッセージ
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「塩で味付けられた生活」(マルコ9:38-50)
マルコによる福音書第9章38節-50節、2015年10月4日、聖霊降臨後第19主日聖餐礼拝、(典礼色―緑―)、民数記第11章18節-20節、ヤコブの手紙第4章13節-5章8節、讃美唱135/2(詩編第135編13節-21節)

マルコによる福音書第9章38節-50節

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」


説教「塩で味付けられた生活」(マルコ9:38-50)

 厳しかった8月の暑さも過ぎ、又、日本列島を襲った台風等による災害の時も経て、あるいは又、安保法案が参議院を通過し、世界においても中米大国を中心に先行きが見えない中、確かなものはみ言葉にしかないと私たちは週ごとに教会に集まり、み言葉を聞き、聖餐に招かれ、今年も次第に終わりへと、一年の収穫の時期へと入って行きます。
 このところ、マルコ福音書の、十字架に向かわれる途上の主イエスの教えを聞かされています。
 ところで、今日の第1朗読の民数記では、エダド、ビルダデという者がモーセと同じように預言受胎になっているのを、従者ヨシュアがやめさせようとモーセのもとにかけつけると、モーセは、私のためにねたんで言ってくれているのか、私の願いは、すべての民が預言できることですらあるとヨシュアを押し止めています。今日の福音と通じるかのようにも想い起こされるエピソードであります。
 第2の朗読のヤコブ書は、富を誇らず、神の意志に適って用いるように戒め、貧しい者の搾取の上に欲望を思いのままにしている者に警告を発し、忍耐強く、秋の雨と春の雨を待ち望む農夫のように、確かな生活をするように奨めています。
 さて、今日の福音は、先週に続く記事であります。やはりカファルナウムの家の中での出来事であります。
 あの雷の子と言われた12弟子のうちのヨハネがやって来て言います。先生、あなたの名を使って悪霊を追い出しているが、私どもに従おうとしないので止めさせようとしましたと。しかし、主イエスは、止めさせないがよい。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後に私の悪口は言えないだろうからと言われます。
 私たち教会の部外者が、主イエスのみ名の上に悪霊払い等しているのです。ヨハネの主張は、間違ってはいないでしょう。しかし、その人は、主イエスのみ名を信じて悪霊を追い出し、神の国が来たことを証しする者であったことは違いないので、主イエスは、微笑みを浮かべて、ヨハネを諭したのでありましょう。
 この後、ペトロは、主の受難の時、その人を知らないとまで誓うのであります。しかし、主の復活と聖霊降臨の後、弟子たちは主のみ名を宣べ伝え、罪の赦しを、地の果てにまで宣言していく者と変えられていくのであります。
 主イエスは、弟子たちが主の十字架への道行きの意味が分からず、ただ恐れてばかりいるときに、この悪霊追い出しを、私たちに逆らわない者は、私たちの味方であるとまで認め、歓迎するのです。
 私たち現在、主のみ名を宣教する教会の者は、主イエスを悪くは言わないが教会には加わろうとしない人に対して、ここに洗礼があり、赦しがあることを説き明かしして、私たちの教会、主の体に招き入れるよう、温かく迎え入れる。そういう働きかける者でありたいです。
 次に、主イエスは、よく言っておくが、あなた方がキリストの者だという名において、水一杯でも飲ませてくれる者は、決して彼の報いを失うことはないと言われます。
 私どもは、キリストの者とされているのですから、どんなに取るに足りない弟子であっても、それを喜ぶ者でありたいものです。
 さて、主は続けて、私の弟子である小さい者の一人を躓かせるよりは、ロバに引かせる大きな石臼を喉にかけられて、海に投げ込まれる方がはるかによいと言われます。
 先週のみ言葉で、主は、このような子供の一人を、私の名の上に受け入れる者は、私を受け入れるのであると言われましたが、私はここで、特に私の弟子、信者のうちの小さい者、信仰の弱い者、あるいは歩み始めたばかりの者などを躓かせるよりは、海の深みに、女の引く石臼ではなく、大きな石臼がかけられて海に投げ込まれる方が、その人にとってずっと良いと言われます。
 そして今度は、人を躓かせるのではなく自分を躓かせることに対して警鐘を鳴らします。もし、あなたの片手が躓かせるなら、片手を切り取って、不自由になっても命に入る方が、両手そろって、ゲーナへと、燃え尽きない火へと出て行くよりもあなたには良い。憶え易い言葉で、今日のみ言葉は記されており、連想ゲームのように、つながっていきます。
 もし、あなたの片方の足があなたを躓かせるなら、切り取って捨てなさい。両足そろって、ゲーナ、地獄に投げ込まれるより、片方の足で不自由になっても命に入る方がよい。
 これは、はかない一時的な満足に過ぎないものより、神との交わりによる命のためには、どんな犠牲も惜しんではならないと言われるのです。
 さらに、あなたの片方の目があなたを躓かせるなら、それをえぐり取って捨ててしまいなさい。片目になって神の国に入る方が、両目で地獄に投げ込まれるより、あなたには良いと言われます。
 自分にとって大事と思われるものでも、神の支配、神の領域に入ることを妨げるものであるならば、それを捨てなければならないと言われます。
 そして、地獄、ゲーナでは、彼らの蛆は死なず、その火は消されないと、イザヤ書巻末の言葉を、主は引用されました。
 それは、ゲン・ヒンノムの谷を意味し、悪王などがモロクの神、息子や娘を火に投じた、エルサレムの西の場所で、後には屑やゴミ焼き場となり、神に逆らった者たちの罰の場所と考えられていました。
 そして、主は言われるのです。なぜなら、すべての人は、火で塩味が付けられねばならないだろうからだと。これは、昔から、分かり難い言葉の一つとされてきました。レビ記には、ささげられるすべての穀物やささげ物は塩をかけられ、清められねばならないとありますが、あるいはまた、火で焼きつくすささげ物とされねばならないということでしょうか。
 ここは、前節の、ゲンヒンノムの裁きの恐るべき火ではなく、清める火、精錬する火で、主イエスの弟子はすべて忍耐としつこさとまでを持って、苦しみに耐えるべきことを、主イエスは語っておられるようであります。
 洗礼者ヨハネが、私の後に来られる方は、火と聖霊であなた方に洗礼を授けると言いましたが、主イエスご自身の十字架をさえも、主はここで指さしておられるのかもしれません。
 迫害や苦しみに耐えて、邪悪は滅ぼされ、善が保存されることを、ネロの迫害等の中で、弟子たちは、このみ言葉の中に思い起こしたのではないでしょうか。
 そして、続けて、関連するみ言葉が続きます。塩は良いものである。しかし、塩が塩気を奪われたならば、それを何においてあなた方は、塩味を付けるだろうかと言われます。
 塩は保存し、又、防腐剤の働きを持ちます。死海の岩塩が他の物質と混ざり合い、馬鹿になる。その保存したり、腐るのを防ぐ資質を失うことがあるそうです。
 あなた方は地の塩であるが、塩が塩気を失ったなら、外に投げ捨てられ、何の役にも立たなくなると主イエスは言われました。そういう資質、特徴を持ち、一つに収束する塩を、あなた方の内に持ちなさいと主は言われます。
 そして、お互いに平和に過ごしなさいと。塩で味付けられた言葉を用いなさい。そうすれば、どのように答えるべきか知るでしょうと、パウロは言いました。
 主イエスもここで、健全な常識を働かせ、快い言葉を用いなさい。慈悲に満ちた、相手に慈善となる生き方をしなさい。そうすれば、お互い同士、和らいだ生活、塩気の利いた生き方が、あなた方、教会の中で保証されるでしょう。そして、み国において、だれが一番大きいかではなく、小さい兄弟を躓かせることなく、また、自分自身をも躓かせない、神の国に入り、神との交わりに生きることができると、主は、分からないでいる、十字架に進まれる途上で、弟子たちを招いておられます。
 塩に味付けられた言葉を用い、赦し合い、励まし合い、高め合う共同体、教会を、私たちも、今日のみ言葉から求めて行きましょう。アーメン。



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2015/10/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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