津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスの弟子とされた幸い」(マルコ9:30-37)
マルコ福音書第9章30節-37節、2015年9月27日、聖霊降臨後第18主日礼拝(典礼色―緑―)、エレミヤ書第11章18節-20節、ヤコブの手紙第4章1節-10節、讃美唱119/3(詩編第119編17節-24節)

マルコによる福音書第9章30節-37節

 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」


  説教「主イエスの弟子とされた幸い」(マルコ9:30-37)

 今日の福音、マルコ9:30-37は、先週の第1受難・復活予告に続く第2受難予告であります。フィリポ・カイザリアから、変貌の出来事の後、ガリラヤを通って進む道すがら、主イエスは、ご自身をだれかが認識するのを欲されずにおられました。
 それは、弟子たちに、御自分の受難と、その後続いて起こるご復活という秘儀を12弟子だけに教えておられ、こう語っておられたからであります。
 「人の子は人間どもの手に渡される、そして、彼らは彼を殺すだろう、そして、彼は殺された後、三日後に起き上がるであろう」と。
 私たちの新共同訳では、教えておられたという言葉がなぜか訳出されていません。
 しかし、とにかく、人の子、受難、苦しみを受ける主イエスは、神によって死に渡されるのであります。罪なくみ子を、父は私たちの罪のために、死に付けられるのであります。
 弟子たちは、第1予告の時のペトロのように表立っては出てきません。ただ彼らは、主のなさった2回目の予告も理解できずに、あるいは、自分たちも死を迎えることを予感したのか、あるいはさらに、主イエスに質問することで様相が更に悪化することを直感していたのか、主に訊きただすことを恐れるばかりでありました。
 そして、一行はカファルナウムに戻って来ます。そして、このときも、家に入ると、主イエスは、質問なさいます。
 「道すがら、何を議論していたのか」と。「彼らは黙然たり」と文語訳では訳されていました。それは、み国、すなわち神の国に入るには、相応しい会話とはとても言えないことを、彼らは自覚させられていたからであります。
 すなわち、自分たちのうちで、だれが一番大きいのか、偉いのかと論じ合っていたからであります。
 今の教会でも、だれの信仰が一番大きいかということは考えますが、比較し合う問う点では、12弟子たちと同じであります。だれが一番の席次であるかは、い尼も同じように教会でも関心のあるところであります。
 ところが、主イエスは、腰を下ろし、改めてそう大きくない家の中で、12人をことさら呼び寄せて語り始められます。
「あなた方の内で一番になりたい人は、そのすべての者の内で最後のものになりなさい、そしてすべての者への仕える人になりなさい」と。
 仕える人というのは、ディアコノスという言葉です。ディーコン、長老という教会の中の役員のような人を指して言う言葉がありますが、これは、下で仕えるという意味で、ディアコニアという言葉のもとになっている言葉であります。下で支える者になりなさいというのです。
 決して、教会に上下関係や序列があってはならないということではありません。教会にもそれなりの秩序が大切であります。
 一番になりたい人は、最後の者となり、すべての人の下に仕える人になりなさいというのです。その人こそが、あなた方にあっては、一番大きな者であり、偉い人なのだと、ガリラヤを通り抜けて、十字架への旅の途上で教えておられるのであります。
 そして、これはペトロの家であったでしょうか、主は、子供を手に受け取って真ん中に立たせ、それから抱き上げて教えられます。当時、一般に子供は、弱く、無力で助けを必要とし、一人前の人間としては扱われなかった存在でした。
 ここで出て来る「子供」とはパイディオンと言い、パイスから来た言葉で、これは「しもべ」をも意味する言葉です。そして、主はその子を抱き上げて言われたのです。
 「この子供のような一人を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私を受け入れるのではなく、私を遣わした方を受け入れるのである」と。
 主イエスは十字架に付いて、神の身分であったのに、最も低いしもべの姿を取り、私たちすべての者のために苦しめられ、辱められ、最も小さい者、低くされた者となられるのです。
 神の独り子であったにもかかわらず、子供のように、そして、イザヤ書第53章に出て来るように、私たちの身代わりとなって、罪のないお方が、私たちのために死に渡されるのであります。ですから、子供のように無力で貧しく、助けなしには生きられない、この世でいちばん小さい者となって下さったのです。
 そして、私たちはそのような形で、私たちのところに来て下さったお方を受け入れ、歓迎し、もてなす弟子になるようにと招かれました。主は高ぶる者は、神によって低くされると戒めておられます。
 主イエスご自身の謙りと、父の意志への従順を、私たちは知っており、同じように、この世の最も小さい者、無力な者を受け入れ、キリストがそうなられたように、私たちも、自ら小さい者を受け入れ、それに仕えていく弟子となるように招かれています。
 私たちは、この自分を低くしていく道を選びとった一人一人であります。
 人の子は人々の手に渡され、殺され、三日後に死から起き上がると主は、今回、弟子たちだけに諄々と説かれ、教えておられました。
 しかし、弟子たちはそれが何のことかわからず、十字架に主が向かう途上にありながら、自分たちの内でだれが一番偉いのかと論じ合っていました。
 しかし、主イエスの弟子としての偉さは、この世界での影響力の大きさや名声、威信を求めるところには、存在しないのであります。
 子供のように、一人前の人間としては顧みられることのなかった小さい者となり、また、私たちの罪のために苦しみを受けるしもべとなって、主は十字架にかかり、復活なさいました。
 私たちも、主に倣って、すべての人に仕える者に、また、子供を抱き上げ祝福し、歓迎する者に、小さい者に仕え、自らもディアコニア、すなわち、下から仕える者になる者こそ、主の弟子として大きいことを知らされております。このまことに幸いな、小さな弟子の群れとされている道を、主に従って歩んでまいりましょう。アーメン。

スポンサーサイト
2015/09/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。