津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスとそのお言葉を恥じる者」(マルコ8:27-38)
マルコ福音書第8章27節-38節、2015年9月20日、聖霊降臨後第17主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書第50章4節-11節、ヤコブの手紙第2章1節-18節、讃美唱116(詩編第116編1節-19節)

マルコによる福音書第8章27節-38節

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代にわたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



説教「主イエスとそのお言葉を恥じる者」(マルコ8:27-38)

9月号月報「まろにえ」にも少し書きましたが、昨日も、一人の老紳士らしい人から、電話がかかりました。悩んでいることがあるので、また改めて相談に乗ってほしいということで、30分ほど話した後、打ち切りましたが、その人の問いは、エホバの証人とルーテル教会とではどこが違うのかというのです。
私は、教会は、三位一体の神を信じているが、エホバの証人は、エホバの神、すなわち、旧約聖書の主なる神だけを神として信じ、主イエスは、あくまでも、人間であり、たとえば、アブラハムやモーセのように、偉大な預言者にすぎないと考えていると伝えました。人となられた神、それがイエス・キリストであると説明しました。
その人は、エホバの証人の人たちは、聖書すなわち旧約聖書を文字通りに信じているけれども、ルーテル教会ではどうなのかと訊かれるので、たとえば、創世記の始めの天地創造の記事を、エホバの証人はそのまま文字通りの事実として信じているが、それは、人間とは何なのか、信仰から書かれた記事で、必ずしも進化論を否定するものではないと説明し、しかし、進化論も一つの仮説ではないかと伝えました。
その人は、人類は猿からそのまま人に進化したのではなく、チンパンジーとかとは、枝分かれして進化したもので、生物は、はるか昔に、地球に彗星が衝突して、海の中からアミノ酸のようなものから、アメーバ―のような生物が誕生し、進化していったと、今では考えられていると言うのです。
イエス・キリストが、神であり人でもあるということが、ピンとこないようで、又後日悩みを聞いてもらいに連絡すると言われていったん、電話を切りました。
こういう問いから始めて、聖書、又、教会の持ち続けて来た教理や、信仰告白に対しては、疑問を呈する人がたくさん、特に日本ではおられます。
例えば、イエス・キリストのこと、あるいは聖書のことを知らずに死んでいった日本の先祖はいっぱいいるが、その人たちはどうなるのだろうかといった質問を出す人もいます。
しかし、私たち、教会の者も、主イエスがどういうお方なのか必ずしもはっきりと理解していないのではないか、あるいは、頭の中では信じているが、何か別世界のことのように抽象的に考えてしまっていないだろうか、とも思われるのであります。
それらの疑問や、曖昧さに対して、一つのはっきりした答えを出してくれているのが、今日の福音の記事、あるいは、今ほど読まれた今日の日課であります。
主イエスとその一行は、フィリポ・カイザリアの村々へとやって来ます。カイザリアというのは、皇帝(カエサル)に敬意を表して付けた場所であります。
フィリポ・カイザリアには、私も聖地旅行で行った記憶があり、泉が岩間から湧き出し、今でも風光明媚な地であります。半人半獣と言いましょうか、顔は人で体は獣、パヌエルという牧羊神を祀った地域で、純粋のユダヤ人たちにとっては、異教めいた地であり、ローマ帝国の支配の中で、ローマ皇帝こそ、神の子であると多くの者たちが信じていた地方であります。
わざわざ、そのような土地に来て、その道すがら、主イエスは、人間どもは、私をだれと言っているかを、弟子たちに質問なさいます。
弟子たちは、こう答えます。ある者たちは洗礼者ヨハネだと、又、別の者たちは、エリヤだと、更に又、別の者たちは、預言者たちのうちの一人だと言っていますと。
そして、今度は、弟子たちに対して、では、あなた方は私を誰だというのかと、主は聞かれるのです。その時、あのペトロが代表して、言います。「あなたこそメシアです」と。ギリシャ語では、「クリストス」と記されており、「キリスト」であり、旧約聖書の中では、「メシア」、油注がれた者の意味であり、やがて、ダビデの末から起こされると信じられていた救い主でありました。そして、主は、このことを、だれにも言わないようにと、弟子たちに厳しく命じられます。
そしてそれに続けて、主は第一回目の受難、復活予告をなさいました。人の子は、長老たち、祭司長たち、律法学者たち、すなわち、サンヘドリン、エルサレムの最高法院のメンバーによって、排斥される。これは、詩編にあるように、家造りらによって無価値と宣言された隅の親石というときに遣われている言葉です。そして、多くの苦しみを経て、彼らによって殺されるが、彼は三日後に起き上がることになっていると予告したのであります。
そんな先の運命が、主イエスには分かったのだろうかと、疑問に思う人たちもいます。しかし、三回にわたって、主イエスは、この予告を弟子たちになさいました。もちろん、弟子たちは、主イエスの言われる言葉の意味が何のことか、いずれの場合もわからなかったと聖書には書いてあります。
ここで、主は、御自分のことを「人の子」と自称しておられます。これは、ダニエル書7章に出て来る名称で、そこでも、「人の子」は、多くの苦しみを受けると預言されています。
まことの「神の子」が、「人の子」として苦しみを受ける。しかし、また、彼は殺された後三日後に起き上がる。
旧約聖書でそのように約束されていると主は言われるのです。今日の日課、イザヤ書50章でも、主の僕は、「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には、頬をまかせた」とある通り、後の教会はそれを、主イエスのご受難の預言として受け取ったのであります。
しかも、主イエスは、この予告を、はっきりと弟子たちに語っておられた。ところが、先の、信仰告白をしたはずのペトロが、主を脇へ連れて行って、然り、諌めようとするのであります。
主は弟子たちの方を振り返り見ながら、ペトロに、「サタン、私の後ろに退け」と叱りつけ、「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われます。
私たち、人間の思いでは、このように神の子が苦しみを受けなければならないなどということは、思い至らないことなのであります。
ここで、サタンと呼び付けたのは、「敵対者」という意味であります。主を、あなたこそメシアですと答えたばかりのペトロを、主は、神のご計画に敵対する者として、退けられるのであります。
そして、急に群衆も出て来まして、12弟子たちと共に、主は召集なさって、教えられるのであります。「もし、私の後について来たい者はだれでも、自分を捨て、自分の十字架を担い、それから、私に従って来るがよい」と。ルターは、主イエスが、私どもは、あくまで、自分を憎む者でなければならないと言われる点を繰り返し強調しています。あるいは、自分の妻子をも憎む者でなければならないと主は言われるのです。
 そして、今日の受難予告をなさる主は、彼に従うすべての者たちも同じ師の道を歩まなければならないというのです。その通り、12弟子の多くは、殉教の死を遂げたと遂げたと伝えられています。
現代の私どもは、殉教の死は殆どなくなっているでしょう。しかし、主イエスと同じような道を、主に従うすべての者は歩まねばならないと言われます。
そして、最後の4節を、なぜならば、という理由づけの言葉で記しています。真の命の道を歩むために、かえって肉の体を殺さねばならないのです。自分の命、魂を失ったなら、全世界を手に入れても何の役に立とうかと主は言われます。
自分の魂、本当の生き方を失ったなら、どんな代価でそれを取り戻せようかと、主は言われます。
主は、「私のため、福音のために、その命を失う者は、かえってそれを救う」と言われます。福音、もう神の国は、主イエスと共に現在しているのです。この神の支配のために命を失う者は却ってそれを救うのです。
この福音である主イエスとそのお言葉を恥じる者は、この姦淫と罪深い時代にあって、そうする者は、人の子が父と共に聖なるみ使いたちと共に来るときにその者を恥じる。主イエスは、その者を仲間とは見なされないと言われ、この言葉を聞いているあなた方の中には、私が再び来るのを見る者がいると、御自分の再臨が近いことを約束されています。
主イエスが十字架と復活を遂げられた後、2000年近く経ちますが、いまだに、主の再臨は起こっていません。けれども、私たちはその日が来ることを知っており、「主よ、早く来て下さい」、マラナ・タと祈ることを知っています。
私たちは、今一度、主イエスの呼ばれた一人一人の弟子として、主イエスとそのお言葉を証ししていく者とされたい者であります。アーメン。


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2015/09/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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