津田沼教会 牧師のメッセージ
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「普通にしゃべれるようになる」(マルコ7:31-37)
マルコ福音書第7章31節-37節、2015年9月13日、聖霊降臨後第16主日礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書第35章4節-10節、ヤコブの手紙第1章19節-27節、讃美唱146(詩編第146編1節-10節)




マルコによる福音書第7章31節-37節
 
 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


















 説教「普通にしゃべれるようになる」(マルコ7:31-37)

 今日の讃美唱の詩編146編では、私たちは、人間により頼んではならない、霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰ると、詩人は教えています。

また、第1朗読のイザヤ書35章では、「心おののく人々に言え」と始まり、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌うとイザヤは記し、荒れ野に水が湧き、荒れ地に川が流れると宣言して、バビロン捕囚のイスラエルの民が、シオンに帰り着く日を預言しています。

また、最初から、ほぼ通読している、第2の日課のヤコブ書では、人は語るに遅く、聞くのに早く、敏くあるように戒め、舌を制するようにと、信仰の実践を奨めています。

さて、今日の福音は、先週のティロスでのシリア・フェニキアのギリシャ女性の信仰に、主イエスが降参し、まいった出来事に続く記事であります。

主イエスは、そこから、北へとシドンに行き、そこから遠回りに、ガリラヤ湖の東側を通り抜けて、ガリラヤ湖の南側のデカポリス、10の町と呼ばれる異邦人の住む地に入り、そこから、上って、ガリラヤ湖の南端へとやって来ます。その間、主イエスは何をお考えになっていたのでしょうか。同行したであろう弟子たちは、主イエスのこの大旅行の目的をどう受け取っていたでしょうか。真意が分からず、内心つぶやいている者もいたでありましょう。

悪霊の取りついたゲラサ人を、主イエスは癒されましたが、その異邦人の多い地へと大旅行をして戻って来ます。
ティロスの地でも、主イエスは、知られ渡っており、隠れて保養することができなかったように、このガリラヤ湖の南端でも、人々は、耳が聞こえず、口の回らなかった人を、主イエスがお出でになったことを伝え聞き、さっそく連れて来て、手を置いて下さるように、願うのです。
口が回らなかったというのは、生まれつき耳が聞こえず、従って、人の言うことも理解できず、はっきりとはしゃべれなかった人であったでしょう。それで、人ともコミュニケーションが、ままならず、ましてや、神とのコミュニケーションができず、おののきながら、この時を迎えた人であったでしょう。

しかし、これは、主イエスと出会う前の人間、いや、主イエスに出会った後も、自由に、自然にその恵みを感謝し、賛美することが必ずしもできていない、私たちの姿をも現わしている人物ではないでしょうか。

もう40年以上も前になりますが、私が希望に燃えて、田舎から京都の立命館大学に入学してまもないころ、その大学の元総長の末川博先生の晩年の講演を聴いたことを思い出します。なくなられる1、2年前のことであったと記憶しています。

その末川先生は、「彼の歩んだ道」という短い自伝を書いておられます。その中で、人類の学問や技術や科学文明は、著しく発展してきたが、人間の心は、イエス・キリストや釈尊やソクラテスや孔子の時代からそれに伴って進歩したとは言い難く、2000年前より良くなったとは言えないと述懐しておられます。
今日の主イエスのもとへ、恐らく異邦人たちであったであろう人々が連れて来たその人とは、それから2000年たった、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。神の言葉も聞き取れず、その恵みの賛美もすることができないでいる。それが、私たちの罪にまみれた現実の一面だと思うのです。

しかし、おそらくユダヤ人ではなく、異邦人たちであったであろう人々が、主イエスのなさっておられた癒しの奇跡や、神の国の到来の教えを伝え聞いて、この人を連れて来るのであります。

ユダヤ人たちの指導者たちは、主イエスを理解せず、殺そうとさえして来ましたが、主イエスが当面は対象外ともお考えであった異邦人たちが、主イエスのもとに、信頼して、この耳が聞こえず、口もままならない人を連れて来るのであります。

ここでも、ティロスの場合と同じように、主イエスの12弟子たちは、この大旅行に同行したとは明記されていませんが、この癒しの奇跡の時にもそばにいたことでしょう。

しかし、主イエスは、この人とだけ、二人きりの場所に連れて行って、両耳に指を差し入れ、御自分の唾を取って、その人の舌につけて潤します。

そして、天を見上げ、深くため息をして、「エッファタ」、開かれよと呼びかけられます。
この人は、聞こえなかったでありましょうが、その時、耳が聞こえるようになり、また、はっきりとしゃべれるようになる、通常の人のように普通にしゃべれるようになったのです。
主イエスが、天の父に祈られ、深くうめくように、執り成しのいのりをし、言葉をかけると、そのとおりになるのです。そして、主イエスは今も父なる神の右に座して、呻くように、私たちのために、執り成して下さっています。

さて、そのようにして、癒されたこの人を見た人々に、このことをだれにも言わないように、主は口止めなさいます。

それは、見世物のように、この人を癒されたのではなく、主イエスについて、誤解を招くことを、主は避けようとされるのです。

しかし、口止めすればするほど、人々は周りに告げ広めるのであります。まだ、十字架の死と、ご復活の時は来ていないのです。にもかかわらず、人々は主イエスのなさったこの奇跡を告げ広めざるを得ませんでした。
そして、彼らは、この上もなく、測りを越えて驚き、打たれ圧倒されてこう言っていました。

「この人のなさったことはすべてすばらしい。耳の聞こえない者どもを、聞こえるようになさり、口の利けない者どもをしゃべれるようにしてくださる」と。

この人のなさったことは、すべて素晴らしいというのは、見事である、あるいは、美しいという言葉であります。創世記1、2章で主なる神が、天地創造をなさり、6日間の間にすべての被造物を造られ、人間をもご自分の姿に似せて造られたとき、すべては、神の目に良かったと書かれているのと、同じ言葉が使われています。

主イエスは、私たちが主イエスを賛美し、その恵みを感謝できるように、今日の人物の耳を開き、口で自然にしゃべれるように、造り変え、その不自由さから、人間のあるべき姿、神と人とに心を開いて自由に交わる者へと回復してくださいました。

今日の福音の最後の節、7章の37節は、私ども、教会の者すべてが、主イエスを賛美する大合唱であるとも言われています。

主イエスは、良き知らせ、福音を携えて、私どものところにお出で下さっています。そして、洗礼をヨハネから受け、荒れ野でのサタンとの戦いに勝って、ガリラヤに戻られたとき、第一声を上げて説教されたとおり、「時は近づいた、あなた方は悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されています。

弟子たちも、未だにその主イエスのなさること、語られるみ教えを誤解したり、理解できないでいるときに、異邦人たちが、ここで、主のみわざを賛美し、ほめたたえているのです。私たちも、今日の連れて来られた人と一体となって、この喜びの知らせを、周囲の人々に告げ広めるものとされましょう。

祈ります。
天の父なる神さま。
私たちの耳を開き、口のもつれをほどいてください。そして、あなたと交わり、人々と自由に関り合いながら歩んでいくことができるように憐れんでください。あなたが、み子を通して、私たちの孤独を解き、一体となって、あなたを、また、み子イエスを賛美する群れとして下さい。キリストによって祈ります。アーメン。


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2015/09/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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