津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスを捉えた母の愛」(マルコ7:24-30)
マルコ福音書第7章24節-30節、2015年9月6日、聖霊降臨後第15主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書第35章1節-3節、ヤコブの手紙第1章2節-18節、讃美唱123(詩編第123編1節-4節)

マルコによる福音書第7章24節-30節
 
 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせねばならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食事の下の小犬も、子供のパンはいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。


説教「主イエスを捉えた母の愛」(マルコ7:24-30)

 今日の第1の朗読のイザヤ書は、荒れ野に花が咲き、裁くにも花を咲かせよと歌い、バビロン捕囚で弱り込んでいる手やよろめいている膝を強くせよ、そこから、解放されて戻って来られる日が来るからとイザヤは預言しています。
また、第2の朗読のヤコブ書は、信仰が試されることで忍耐が生じると言い、さらに、神は決して人を誘惑なさったりはしないと断言し、人は自分の欲望に従って誘惑に陥るのであり、欲ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生むと明言しています。
さて、今日の福音は、マルコ7:24-30です。先週は、主は人間は内側から清められなければならないと教えられ、内側の思いから、悪い欲望などが出て来ると戒められました。
今日の出来事は、主イエスがティロスの地域、フェニキアの港湾都市の領域にまで、プライベートな時と場所を求めて、出て行かれた時の出来事であります。
主イエスの磁力とでも言いましょうか、その魅力は、敵対関係にあったとも言われるティロス、シドンにまで既に伝わっており、主はだれからも気付かれたくないと願っておられましたが、それはできないことでありました。
主は先週のみ言葉を、家に入って弟子たちに説明しましたが、そこを去った後、遠く離れたティルスのある家にはいられましたが、一人の異邦人、異教徒である、汚れた霊に取りつかれた幼い娘の母親の伝え聞くところとなり、その母親は、娘から悪霊を追い払って下さいとやって来て主のみ足のみもとに、ひれ伏すのであります。
 ルターは、この物語を愛し、これは、彼女にとって自分自身との、又、主イエスとの戦いであったと説教しています。
悪霊が娘の病気の原因だとされていますが、私どもも、悪霊によって、自分の力では打ち克ち難い試みや激しい不安にさらされるものであります。
しかし、この母親を、ここで導いているのは、聖霊、神の霊であったと、シュニーバントという神学者は言っています。
ここで、主イエスはいつもの優しい反応を示さず、拒まれているように思われます。この女性は、ギリシャ人で、生まれ、国籍は、シリア・フェニキア女性であったと言います。
ギリシャ人にも、ユダヤ人にも、福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であります(ローマ1:16)。
しかし、主イエスは、今日の出会いにおいて、「まず、子供たちに十分食べさせるべきことを、あなたは認めなさい。なぜなら、子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくないからだ」と冷たく拒まれるかのようです。
マタイによる福音書では、「私は、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」とも言われています。
神の民イスラエルのところに、その救いの約束を、祝福を伝えるためにイエスはお出でになられました。
その民に十分、パン、命の糧を与えるためにこそ、主イエスは来られたのです。
しかし、ファリサイ派の者どもは、これを受け入れず、主イエスの弟子たちも理解できないでいました。
主イエスが言われる子供たちとは、ユダヤ人たちのことであり、小犬とは異邦人たちのことであります。その子供たちのためのパンを取り上げて、小犬に投げ与えるのは、よろしくない。子供たちにこそ、まず十分に食べさせることを、あなたは認めねばならないと、主イエスはいつになくきっぱりと厳しく明言されるのであります。
それに対して、このギリシャ女性は、恐らく教養もあり、主イエスのユーモアに対しても、機知を持って、答えを返すのであります。
「主よ、そして、食卓の下の小犬たちも、子供たちからのパン屑は食べるのです」と。この「主よ」というのは、異教徒の女性が、主イエスに対して、「だんなさん」という言い方で呼び返したのでしょうか。そうではありますまい。これは、主イエスを、「わが主よ、あなたの言われる通りです。そして、しかし、テーブルの下の小犬も、子供たちの落とすパン屑から、命の糧を受け、おこぼれをいただいています」と言うのです。
イスラエルの民の救い主として来られたあなたの前に、私は、一人の異邦人に過ぎません。しかし、あなたの救いの豊かさ、全世界の民をも恵まれる、あなたの祝福の一端には、私も、そして悪霊に憑かれた私の娘も、み心ならば、そのおこぼれには、価するのではないでしょうか。
この母親は、今なお、主イエスのみ足のみもとにひれ伏したまま、嘆願し続けるのであります。
主イエスは、その時、「まさにその言葉の故に、あなたは帰りなさい。もう悪霊は娘から出てしまった」と宣言されるのです。
この物語は、奇跡物語ではありますが、その方法や傍観者の様子などは一切記されていません。
主イエスは、遠く離れていても、この娘を癒すことがおできになるのです。母親が家に帰ってみると、その娘はベッドの上に寝ており、悪霊は出てしまっているのを見出すのであります。
このギリシャ人の母と娘は、後の教会の信徒となったとの伝説もあります。今日、私たちは、この後、「恵みの机に集いて、主イエスにまみえん。命と安きと喜び、ここにぞあふる」と始まる聖餐の歌を歌って、聖餐に与ります。
今日の、このギリシャ人の、小犬も子供たちのパン屑はいただきますとの信仰、そしてその戦いは、私たちの信仰、また、戦いでもあります。
この母親の示した、ひれ伏し、へり下る姿勢と開かれた態度をもって、ユダヤ人だけではなく、ギリシャ人にも、信じるすべての者に神の力である福音を思い起こし、すべての民が、主なる神のみもとに礼拝するようになるとの旧約聖書の約束が、今日の主イエスのみ言葉を通して実現している幸いを感謝したいと思います。祈ります。

主イエスキリストの父なる神さま。

何の功績にもよらず、ただあなたの憐れみによって、あなたのパン屑に参与が許される者とされましたことを有難うございます。
この信仰が、さまざまな試練を通し、忍耐を通して守られ、私たちを恐れなく、臆することなく、あなたの祝福のうちに、生涯を全うする者と成らせてください。キリストのみ名を通して祈ります。アーメン。

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2015/09/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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