津田沼教会 牧師のメッセージ
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「内側からの清め」(マルコ7:1-15)
マルコ福音書第7章1節-15節、2015年8月30日、聖霊降臨後第14主日礼拝(典礼色―緑―)、申命記第4章1節-8節、エフェソの信徒への手紙第6章10節-20節、讃美唱15(詩編第15編1節-5節)

マルコによる福音書第7章1節-15節
 
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。-ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、実を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。-そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。、つまり神への
『この民は口先ではわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
 人間の戒めを教えとしておしえ、 
むなしくわたしをあがめている。』
  あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべき者は、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」



説教「内側からの清め」(マルコ7:1-15)

先週の、湖上を歩いて、逆風に漕ぎ悩んでいる弟子たちのもとに、丘の上から目を留めて、祈られていた主イエスが、その弟子たちの舟のそばを通り過ぎようとされるのを、弟子たちは、幽霊だと怯え、うろたえる。しかし、主イエスが「私である、恐れるな」と言われて、舟に乗り込まれると風も止んだという奇跡に続いて、今日の記事の前には、ゲネサレトに着いた主イエスの一行のもとに、大勢の人々が押し寄せ、主イエスは、病をいやしておられたという記事が挟まれています。

 今日の出来事は、その主イエスのもとに、エルサレムからも、ファリサイ派や律法学者たちの数名が集められるという文章で始まっております。

 あるいは、主イエスの教えやなさっている力あるみ業に、恐れを感じたエルサレム当局から遣わされたスパイのような存在だったかもしれません。

 主イエスの弟子たちが、市場や公衆の場から帰って来たときに、入り口で、念入りに手を念入りに洗わないで、入ってしまい、そのまま食事をしたりするのを見て、訝るのであります。

 というのは、当時の敬虔なユダヤ人たち、特にこのファライサイ派どもや律法学者たちは、市場などで異邦人や汚れた者たちと交渉のあった後には、手を洗うことなどのほかにも、やかんを水に漬けたり、水差しや、引いては寝台なども水に漬けて汚れを取るなどというやかましい細則を几帳面に守っていたのでります。

 しかし、主イエスは、彼らに、あなた方のことを見事に、預言者イザヤが預言している、すなわち、あなた方は私を敬っているが、その心は遠く私から離れていると、引用して言われ、例えば、十戒の父母を敬えと、モーセは命じたのに、あなた方は、この与えるべきものは、コルバン、すなわち、神への供え物ですと言えば、両親に与えなくてもよいなどとして、神の律法の教えから遠く離れてしまっていると、その偽善を断固として暴かれたのでした。

 私たちもまた、十戒の父母を敬え一つとっても、これを十分に守ることのできない、罪に塗れた、弱い一人一人に過ぎません。

 しかし、主イエスは、私たちがまず、心の内側から清められることがなければ、如何様に、手を入念に洗い、外のものを清めても空しい。そして、実は外から入るものは、何ものも、その人を汚すことは出来ず、内側から出て来るものが、その人を汚すのであると、ファリサイ派や律法学者たちの偽善をはっきりと指摘されたのであります。

 現代は、刹那的な快楽を追求する社会とも言われています。そのような中にあって、私たちを、内側から清め、家庭生活を守り、社会を真の意味で清め、導くものは、主イエスのお言葉を始め、聖書のみ言葉の一つ一つであります。

 私たちは弱く、罪に塗れ、倒れ伏してしまう罪人ではありますが、既に、主イエスのみ言葉を通して、清められ、義とされた罪人であります。

 罪に陥っても、すぐに戻って来るべきともし火を知っています。十字架にかけられ、三日後に復活なさった主イエス・キリストです。主イエスと共に歩む道の幸いを、世の人にも伝えるために、私たちは教会に集う者であります。

 主イエスと共に歩むときに初めて、十戒をも私たちは真の意味で守ることができる者へと変えられます。いや、既に、主イエスが言われたようにあなた方は清いので、足だけ洗えばよいのです。

私たちの罪のために死なれた義なるお方と共に歩むことが既にここに集う一人一人に赦されているのです。アーメン。



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2015/08/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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