津田沼教会 牧師のメッセージ
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「常にあなたの傍らにおられる方」(マルコ6:45-52)
マルコ福音書6章45節-52節、2015年8月23日、聖霊降臨後第13主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、ゼファニア書3章18節-20節)、エフェソの信徒への手紙4章1節-16節、讃美唱141(詩編141編1節-8節)

マルコ6章45節-52節
 
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。


説教「常にあなたの傍らにおられる方」(マルコ6:45-52)

今日の福音は、先週の5000人の群衆の必要とした糧を、主が弟子たちの集めたわずかな食べ物で満たしたという驚くべき奇跡に続く記事であります。
既に時も遅くなったとき、主は強いて12弟子たちを舟に乗り込ませて、向こう岸のベトサイダに向けて、先に船出させられます。
一方で、主は、群衆を解散させ、彼らと別れて、一人、山へと祈るためにお登りになります。何を求めての祈りだったのでしょうか。並行記事のヨハン福音書では、群衆が、主を王にしようとしているのを見て、山へと退かれたとあります。
主イエスは、ご自身の使命を今一度深く父なる神に問い、これからの道行きを父から知らせて頂くために、祈られ、そして、そのためのご用に当たる12弟子たちにご自分を、悟らせるために、あえて独り、丘の上へと進まれたのではないでしょうか。
ところが、弟子たちは、湖上で逆風にあって進みあぐねていました。陸には、主イエスお一人、海、ガリラヤ湖の上では弟子たちの舟だけが浮かんでいました。
それを見た、主は、彼らのもとへと、みず海の上を、歩き回りながら、進んで行かれます。岸辺近くを、主は歩いておられただけで、弟子たちの舟が、岸辺に引き戻されたのではないかと、考える説もあります。
しかし、これは、主イエスが、海の上の波を打ち砕きながらな実を砕いて歩くことのできる方、ヨブ記で出て来る主なる神のみのおできになるみ業をなさっていることを、示しているのであります。
そして、主は、弟子たちの舟のそばを、なぜか通り過ぎようとしておられました。そして、それを見た弟子たちは、幽霊かと思い、怯えて叫び声をあげるのです。
なぜ、主は、彼らの傍らをすぐには、助けようとせず、通過しようとしたのでしょうか。それは、出エジプト記で、モーセが、シナイ山で主と出会うとき、主なる神は、モーセの顔を手でおおい、過ぎ去るまでそうして、モーセは通り過ぎていった主の後ろ姿しか見なかったとあるように、あるいはまた、エリヤもシナイ山、ホレブ山に登って来たとき、主なる神は、エリヤのそばを通り過ぎたという故事に則っているのです。
このお方は、まことの神として、この地上に、人間の形を取りながらも、実際にこの通り、湖上を歩き回り、しかも、彼らの脇を過ぎ越そうとしていました。
しかし、主は、幻影を見ているかのように、恐れてうろたえ、叫び声をあげたとき、お語りになります。「勇気を出しなさい、私である、恐れることをやめなさい」と。
そして、主が舟に乗り込まれると、風も止みました。私であるというのは、主なる神がヤハウェと言われましたが、出エジプト記でモーセに示された「私はありて、ある者だ」というのと、同じでありまして、これは、「私たちと共におられる方」という意味合いの言葉であります。
この12人の者たちは、その時、過度に、自分たち自身において、正気を失っていた。それは、パンの出来事を理解できず、彼らの心は、鈍くなっていたからであると、マルコは記しています。
主イエスは、私たち教会に集いますキリスト者が進みゆく荒波の信仰の旅地にいつも、共にいて下さいます。
あのさ迷い、飢え渇いた5000人の群衆を、12弟子たちを通して、養い、満ち足らせたお方を彼らは、そのすぐ後の湖上での苦闘の中で忘れていました。主の奇跡の意味を悟ることができずに、真夜中で見た主イエスを幻影、幽霊と錯覚してしまう弟子たちであります。
これはまた、私たち、それから2000年も経っている現在の教会の信者の姿でもあります。しかし、主は、今日もまた、窮状の中、不安と苦悩の中にあって、近づいて来られ、私たちの教会という舟に乗り込まれて、風も静めて下さいます。このお方に従って、一人一人、主イエスの弟子として歩む人生でありますように。アーメン。
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2015/08/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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