津田沼教会 牧師のメッセージ
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「五千人を満たした糧」(マルコ6:30-44)
マルコ福音書6章30節-44節、2015年8月16日、聖霊降臨後第12主日礼拝(典礼色―緑―)、エレミヤ書23章1節-6節、エフェソの信徒への手紙2章11節-22節、讃美唱23(詩編23編1節-6節)

マルコによる福音書6章30節-44節
 
 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。




説教「五千人を満たした糧」(マルコ6:30-44)

 この夏の休暇を用いて、結婚して赴任した水俣教会を訪ねて、松山へ戻って来ました。水俣教会には、早蕨幼稚園という小さな学校法人の幼稚園があり、この度、熊本の神水幼稚園付属幼稚園と、惠幼稚園と法人合併して、「子ども園」も採用して1億五千万円の総工費で古かった園舎を急遽、立て替えているところで、12月には二階建ての園舎が完成します。
 今年4月から迎えた、神学校を卒業し、結婚したばかりの牧師夫妻を交えて、信徒5人ほどが、久しぶりに降りしきる雨の中、古いままの教会・牧師館と続いている、昔のままの礼拝堂に集まってくれました。
20年前に、私ども夫婦は、赴任しましたのですが、その頃よりも信徒は、天に召されたり、他へ引っ越ししたりで、かなり減っています。
けれども、懐かしい、その守っておられる方々は、20年前と同じ、堅い信仰生活を守っておられることに、深い感銘を受けました。
実は、もう一人、県境を越えた鹿児島県の阿久根教会で、獣医をしている兄弟を是非、尋ねたいと思ったのですが、ちょうど彼はチンタオに出張して、木曜日まで帰らないとのことで、会うことはできませんでした。
この兄弟は、51~52歳で、早蕨幼稚園の卒業生でもありますが、ご一家で阿久根教会を守っているような家族でありました。ところが昨年の暮れ、12月30日の主日のことでしたが、奥さんが蜘蛛膜下出血で急に召されたのであります。ご主人は出張中で、当日、ある姉妹のお父さんが、めでたく洗礼を受けるとのことで、愛餐会の食事の準備をしていて、倒れ、発見も遅れたという悲しい出来事でした。男の子3人を残して、急に召され、御主人の彼は、今も悲しみから立ち直れていないとのことでした。
牧師をしていますと、このような不条理とも思われる兄弟姉妹の死に接することが少なくありません。
水曜日の夕方に、松山に着きました。介護の仕事をしています妹に久しぶりに会いましたが、今度は、その妹から、宇和島の高校時代の私の同級生で、尊敬していた友人が、ガンで不幸な死に見舞われた戸の情報を知らされ、もう私も還暦を迎えていますので、こういうこともあってもおかしくはないと思わされています。彼は、最後は宇和島市消防署長まで勤め、高校、大学時代は野球をやり、男女を問わず、皆の信望を集める友人で、私が牧師になっていた頃には、週報等も送っていた時期があったと記憶しています。
もっと、親しく付き合っていればと残念にも思います。
さて、今日のみ言葉は、「五千人への供食」と呼ばれる記事であります。そして、今日の第1の朗読は、エレミヤ書で、やがて、あなた方にまことの牧者、ダビデのための若枝、メシアが与えられるであろうとの預言であります。
第二の朗読は、平和主日の朗読とも重なりますが、エフェソ書からの記事で、異邦人も、ユダヤ人も、また、すべての人の間の隔ての中垣が、十字架にかかって下さったキリストによってなくなり、まことの平和が与えられているというものでした。
因みに、今日の讃美唱は、詩編23編全体で、口語訳では、「主はわが牧者」と始まっておりました。主なる神こそ、私の羊飼いであり、緑の草の上に伏させ、水のほとりに導かれる。だから、私は、たとえ死の陰の谷を歩む時にも、恐れない。主は食卓の杯を、ぶどう酒で満たし、生涯、主の恵みが私の後を追うという記事でありまして、今日の福音の記事には、最も相応しい、旧約聖書からのペリコペーであると思います。
 さて、今日の福音、マルコ6:30-44であります。使徒たちは、杖一本しか与えられない、初めての宣教から戻って、主のもとに集められます。
主と同じように、悔い改めの説教をし、悪霊を追い出し、病人を癒す宣教ができたのであります。彼らは、自分たちが教えたこと、なしたこと、すべてを報告します。
そして、主のもと、彼らのもとに、大勢の人が出入りしていて、食事をする暇もありませんでした。そこで、イエスは、あなた方はしばらく休みを取るがよいと言って、舟に乗り、「寂しい場所」へ、一行だけで向かいます。
これは、「荒れ野」という言葉でもあります。さて、ところが、これに気付いた群衆は、陸路で、徒歩で、あらゆる町から駆け付け、一行よりも先に着いたのであります。
主イエスは、舟から下りると、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを見て、はらわたがちぎれる思いになります。それは「共に苦しむ」(コンパッション)とも訳されます。そのイエスの熱いまなざしによって、今日の奇跡は、起こされるのであります。
イエスは、その群衆に向かって、多くのことを教え始められます。そして、多くの時間が過ぎた時、イエスの弟子たちが来て言います。「もう時が遅くなりました。群衆を解散して、近くの集落や、村々に行かせて下さい。そうすれば、彼らは、自分対が食べるものを仕入れることができましょう。」
すると、イエスは、「あなた方が、彼らに食べることを与えなさい。」弟子たちは、驚いて言います。「200デナリオンものパンを、私たちが買って与えよとでも言うのですか」と。
マルコに出てくる弟子たちは、主イエスのなさることが分からない弟子、ある意味では不信仰な弟子たちであります。主イエスがなさろうとしていることが分からないし、自分たちの常識、人間の理性でしか考えられない、信仰の小さい者たちであります。
主は、あなた方はどれだけの食べ物があるか、行って見て来なさいと言われます。弟子たちは確かめて来て、五つのパンと二匹の魚を、と答えます。
主は、弟子たちに、人々を組にして座らせるように、横にならせるようにと命じます。人々は、青草の上に、50人ずつ、あるいは100人ずつ列になり、グループになって座ります。
主は、パンを取り、天を見上げて、讃美の祈りを唱え、それを裂き、弟子たちに与え、弟子たちはそれを、彼らの前に差し出します。イエスは、同じように、魚をも皆に分配しました。
これらの表現は、最後の晩餐の聖餐式の設定を思い起こさせます。そして、彼らは食べ、すべての者が満腹させられた。それは、男の者が五千人であったとマルコは記しています。しかも、彼らは、パン屑と魚の残りで満たされた12の籠を持ち上げたというのです。
羊飼いのいない羊のような、迷い、人生の荒れ野で満たされず、飢え求める無数の群衆を、五つのパンと二匹の魚というわずかな食物を祝福し、聖別して、人々の真の心の飢えを満たし、又、体の飢えをも満たすことができました。
旧約聖書では、出エジプトの民に、主なる神がモーセを通して、荒れ野でマナを降らせ、うずらを降らせて、イスラエルの民を養いました。あるいは、預言者エリシャも20の大麦のパンで100人の弟子たちの職を満たし、余りが残されたとあり、エリヤも、サレプタのやもめを、尽きない麦の粉で、主なる神に執り成して、養うことができました。
そして、詩編23編では、詩人ダビデは、主こそまことの牧者として、自分を恵みで導く神をほめたたえました。
しかし、寂しい場所、人生の荒れ野に集まる無数の人々を、今日も、十字架と復活の主は、そのすべての渇きと飢えを満たし、養うことがおできになります。水俣教会の小さな信徒の群れ、又、阿久根のもっと小さな群れの、そのうちの一人をも、主は見放すことはありません。
これから、主の聖餐にご一緒に参与します。主が飼い主のいない羊のような私どもにまなざしを向け、私たちの生きていくまことの糧を、その分からないでいた弟子たちを通して与えて下さいました。
私たちも、この荒れ野を生きていく、まことの糧を人々に与えていく、そのような人生を歩んで行きましょう。

祈ります。
天の父なる神さま。
この世に、まことの大牧者、私どもの羊飼いとしてお出でになられた主イエスに、また、み子を遣わされたあなたに感謝いたします。そして、このお方が、私どもの罪のために命を与えて下さり、他でもない、弱く惨めなこの私たちに、恵みと平和が与えられていることをお礼申し上げます。
今日の主イエスのまなざしを受けて、生涯を、信仰のうちに歩ませて下さい。
主イエス・キリストのみ名を通してお祈りいたします。アーメン。
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2015/08/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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