津田沼教会 牧師のメッセージ
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「良い知らせを伝える足として」(マルコ6:6b-13)内海望牧師
マルコ福音書6章6節b-13節、2015年8月9日、聖霊降臨後第11主日礼拝(典礼色―緑―)、エフェソの信徒への手紙1章3節-14節、讃美唱85/2(詩編85編9節-14節)

マルコ6章6節b-13節
 
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、 悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。


説教「良い知らせを伝える足として」(マルコ6:6b-13)内海望牧師

 イザヤ書には、美しい詩があります。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ書52章7節 p.1148下段)。
これは、紀元前6世紀にイスラエルの民がバビロニア帝国によって捕囚の民となり、苦難の生活を続けていた時、神さまの使者として遣わされた預言者が、良い知らせを伝える足として、捕囚よりの解放を人々に告げ知らせ、人々に希望を与えた詩です。パウロも宣教の素晴らしさを、この詩を引用しながら語っています。(ローマ10:15)

今日の福音書の日課であるマルコ6:6b以下は、まさに、イエスさまが12弟子を「良い知らせを伝える足」として送り出される場面です。「遣わす」と言う言葉は「使徒」と同じ言葉が使われています。
しかし、私たちは、この派遣の記事に戸惑いを覚えます。12弟子たちは、私たち以上に大きな戸惑いがあったでしょう。何故なら、弟子たちは、ごく最近のこと、ガリラヤ湖で突風に見まわれた時、イエスさまが共にいて下さったにもかかわらず、は見風に恐れおののき震え上がるような弱々しい群れであったのです。イエスさまから、「まだ信じないのか」と嘆かれるような信仰薄い群れであったのです。「どうして、私たちのような者たちが、神さまの良い知らせを告げる使徒になれるであろうか」という思いが12弟子の率直な感想であったと思います。私たちも同じです。彼らは、これまでに、使徒と呼ばれるにふさわしい信仰も業績も見せていません。
実は、私たちは、聖書の中に、同じような困惑を感じた人々を数多く見出すことが出来ます。例えばモーセです。神さまから「苦しみの中にあるイスラエルの民をエジプトの地から救い出しなさい」との召命を受けた時、彼は、頑として応じません。神さまから、「私が必ずあなたと共にいる」と言われても、「民が私を信じるはずがありません」とか「私は便が立ちません」と逃げ口上を次々に並べ立てて断り、ついに神さまの怒りを買ったと書かれています。そして、最後の最後にアロンという弁の立つ仲間を与えられて、しぶしぶ神さまの派遣の命令に従ったのです。
エレミヤもそうでした。神さまの召命を受けた時、「私は、語る言葉を知りません。私は若者に過ぎませんから、辞退します」と答えるのです。しかし、殆ど無理強いのような形で預言者とされてしまいます。
パウロも例外ではありません。「私は月足らずで生まれた、教会を迫害するようなものだから使徒と呼ばれる値打ちはありません」と告白しています。
しかし、それにもかかわらず、彼らは神さまの良い知らせ、福音を伝える足とし派遣されているのです。
私たちは、戸惑います。どうしてそんなことが起こるのか。しかし、まさにここに、神さまの愛の奥義があるのです。
神さまは、信仰深いだとか、高潔な人格の持ち主だとか、有能だとか、健康だとか、人間の側の資格を問題にされません。幼子も(「幼子のようにならなければ」、サムエル)、青年も(エレミヤ)、シメオンのような高齢者も、84歳の女預言者アンナも、身体的にハンデイのある者(モーセは障がい者であったとも言われます)、すべての人々を、「良い知らせを伝える麗しい足」として当てにして下さっているのです。つまり、私たちの人生そのものが、そのような使命を神さまから与えられているのです。私たちは、だれ一人例外なく、神さまから「良い知らせを伝える足」として召されているのです。
有能だとか、無能だとか、若すぎるとか、高齢だから何も出来ないとか、罪人だとか、病人だからとか、あるいは民族の違いで区別する、などという考え方は、私たち人間が作った壁なのです。神さまの愛は、このような人間が作った隔ての壁を打ち破る力なのです。私たちの偏った目を、正しくするものなのです。
神さまの目からすれば、私たちの誰一人不要な者はないのです。私たちは一人残らず、「神さまに必要とされている者」なのです。12弟子を遣わされるイエスさまは、今ここにいる私たち一人一人も「良い知らせを伝える足」として、遣わそうとしていらっしゃるのです。
しかし、私たちは、この神さまの愛を喜ぶと共に、私たちの生き方が大胆な「方向転換」(悔い改め)を迫られていることに気付かされます。何故なら、神さまに愛は、私たち自身が「隔ての壁」を作っている張本人であること、私たちの目が偏っていることを明らかにするからです。
 もちろん、私たちは善意の人ですから、平和を愛し、穏やかな心で生きて行こうと心がけています。しかし、一旦、私たちの平和を脅かすような出来事に出会う時、私たちは、自分の人生を守るために、自分の平和を乱す者を排除しようとします。たとえ、それが家族であっても、あるいは親しい友人であっても。
その意味では、「私の平和」「我々の平和」は利己的であると言って良いでしょう。いつも、新たな憎しみ、対立を引き起こし、隔ての壁を作るのです。その事実を、神さまの愛は明らかにするのです。その意味で、神さまの愛は両刃の剣です。
神さまの愛は、イエスさまの十字架において、その究極の姿を現わします。イエスさまは、その死に際しても、人々を分け隔てなさいませんでした。十字架上で、苦しい息の下で、イエスさまは、自分を苦しめ、殺そうとする人々を赦し、彼らのために執り成しの祈りを神さまにささげられ続けた方です。この祈りこそ、人々の心を変える力となったのです。
教会を迫害し、苦しめていたパウロは、この十字架上の祈りが自分のための祈りであることに気付かされた時、その歩みを180度方向転換させました。教会を迫害する、神さまに敵対する私を赦し、私を生かすためにキリストは死んで下さった、このイエス・キリストの愛を知ったとき、パウロは新しく生まれ変わり、福音の宣教者となったのです。パウロは、その経験を、「キリストの愛が、私に迫った」ので、私は変えられたと語っています(コリント二5:13=口語訳)。「迫って来る愛」、ダイナミックな表現です。パウロにとって、イエスさまの十字架の愛は、かくも大きな力強い出来事であったのです。
イエスさまの十字架の愛は、人間の良心を突き刺す剣でもあるのです。イエスさまご自身、「私が来たのは、地上に平和をもたらすためだと、思ってはならない。平和でなく、剣をもたらすために来たのだ。」とおっしゃっています(マタイ10:34)。イエスさまの十字架の愛は、私たちの愛が、利己的な、偽善的な愛であることを露わにします。しかし、イエスさまのこの剣は、同時に、古い私に死に、新しいいのちに復活させる力でもあるのです。12節の、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した」と書かれているところは、「復活のいのちを与えるために宣教した」と読みかえることが出来るのです。
イエスさまは、唯一の新しい掟として、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)と命じられました。「良い知らせ」とは、まさにこのイエスさまの十字架の愛を伝えることです。私たちは、この「良い知らせを伝える足」です。「伝える」ということは、語ることより、キリストの愛を持ち運ぶことです。
今は、一切の戸惑いを捨てて、「イエスさま。私を遣わして下さい」と心から答えることが出来るのではないでしょうか。感謝と喜びのうちに「良い知らせ」を伝える者としての歩みを始める勇気が与えられました。新しい旅立ちです。
私たちは、先週「平和主日」を守りました。今日は長崎に原爆が投下されて70年の記念日です。私たちは、切実な心で、本当の平和を求めます。それは、神さまの愛以外にありません。神さまの愛は、真の平和を作り上げる原動力です。これは理屈ではありません。ご自身の命を奪う者のためにも祈り続けて下さっているイエスさまの心、生き方を自分の人生を通して持ち運ぶことこそ平和を作り上げる土台なのです。私たちは信仰薄く、勇気もない人間です。イエスさまのようには到底生きることは出来ません。しかし、イエスさまの恵みを体いっぱいにいただいた者としての喜びに生きる時、私たちは、「イエスさまの香り」は運ぶことが出来ます。私たちは、キリストの愛の力を過小評価してはいけません。「私一人頑張っても、何も出来ない」と言ってはなりません。神さまが、この罪人の私を用いて下さるのです。ですから、確かな足取りで、「良い知らせを伝える足」として一歩を踏み出しましょう。




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2015/08/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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