津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「あなたは怖がらなくてもいい」(マルコ4:35-41)
マルコ福音書4章35節-41節、2015年7月19日、聖霊降臨後第8主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、ヨブ記38章1節-11節、コリントの信徒への手紙二7章1節-16節、讃美唱107(詩編107編1節-3節、23節-32節)

マルコによる福音書4章35節-41節
 
  その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


説教「あなたは恐がらなくてもいい」(マルコ4:35-41)

今日の第1朗読のヨブ記38:1-11は、3人の友人たち、そして更に、友人エリフとの議論の後に、ついに、ヨブに向かって主なる神が、声をかける、ヨブ記の終曲の部分に入った記事であります。
ますらおよ、腰に帯びして、男らしくせよと、主はヨブに向かって、その神批判をやめさせようとします。
そして、水の果て、海の果てに、堰を作り、柱を立てて、限界を作り、それを水が越えることがないようにしたのは誰かとヨブに質問なさいます。水と海を支配することができるのは、主なる神のみと、旧約聖書では語られています。
それに対して、今日の、ガリラヤの海での出来事は、挑戦するかのようにも思われる出来事が記されています。
その日、夕方になったとき、主イエスは、彼らに、向こう岸に行こうと誘われます。異邦人の多い対岸にも神の国を知らせようとされたのでしょう。弟子たちは、主イエスを小舟に乗せたまま、漕ぎ出します。マルコ4:1を見ますと、カファルナウムの湖辺でしょうか、主イエスのもとに、大勢の群衆が、神の国の譬え話を聞くために、押し寄せてきます。主は、押しつぶされないため、小舟に乗り、腰かけて、「種の譬え」や、「種まき人の譬え」や「芥子種の譬え」などを語っておられました。途中で、弟子たちと、自分の側の者たちとだけ、ひそかに語った言葉や、譬えで語るわけなどのみ言葉もありますが、それは、マルコの好むサンドイッチ方式の妙法によっていました。
 今日の出来事はその日の夕の出来事として、続けて読むことができます。彼らが置きへと出て行ったとき、主イエスの舟と共に、他にも数隻の舟もいたと、マルコは記します。
ペトロの追憶に基づく記事なのか、共観福音書の中では、今日の出来事でも最も生き生きとその時の光景、状況が記されていることが分かります。
舟が沖に出たとき、風の激しい突風、ハリケーンのような疾風が吹いて来ます。これは、今でも、ガリラヤ湖ではよく起こる現象です。
私が、もう30年近くも前、初めての海外旅行で、聖地旅行に行った折にも、ティベリアスに泊まった夕方にも、北の方から急に曇り、風と共ににわか雨が近づいてきたため、慌てて、そちら方面に向かっていたジョッギングをやめて、引き返したことを思い出します。
ガリラヤ湖は、海面下にあり、すり鉢状の深い湖となっており、突然の嵐に漁師が悩まされるということは、しばしばあったようであります。波が高まり、舟に打ちつけて、舟は水浸しとなり、弟子たちは、漁師の出である者が4人もいたにもかからわず、もはや終わりかと思うほどの嵐でありました。
ところが、主イエスはと言うと、日中の説教でくたびれ果てていたのか、船尾の舵のある辺りで、枕に向かって眠りこんでおられたのであります。
これは、旧約聖書のヨナ書の、主なる神の命令に反して、船に乗って地中海へと逃げ出した時のヨナの物語を思い起こさせます。ヨナも、何とか逃れて来て、ヤッファから船に乗り、疲れ果てて船底で眠りこけていたのであります。
ところが、嵐となって、船員たちは苦闘しますが、どうにもならなくなり、だれかが、その神の意に反して、乗船したためだろうということになり、くじで当てた所、ヨナに当たり、ヨナは、白状して、この窮状から脱するために、自分を海へ投じてくれと言います。
船員たちはそれはできないと言いますが、ついにこと切れ、ヨナを海に放りこみます。
すると、嵐は治まり、彼らは助かったのです。ヨナは、ご存じのとおり、海中で、鯨に呑み込まれ、三日三晩、過ごし、その後、砂浜に吐き出されて、アッシリアの首都ニネベの人々に悔い改めの説教へと今度は、主の命令に従って出て行ったという記事であります。
さて、ガリラヤ湖の猛烈は嵐の中で、弟子たちは、ついにイエスのもとに来て、叱責するかのように訴えます。「先生、あなたは、私たちが滅びようとしているのに、何ともお思いにならないのですか」と。
主イエスは、そのとき、すっと起き上がって、風と湖に向かって命じられます。「静まれ、黙れ」と。すると、生き物のように、湖は大きな凪となり、風も止んだのです。
このような自然奇跡と呼ばれるものは、実際にはその通りには怒らなかっただろうと、ある有力な新約学者たちは唱えています。
しかし、ここには、旧約聖書では、海や嵐を治めるのは主なる神のみであるとされているのに対して、主イエスは、同じような神の力が与えられているとの弟子たちの信仰を言い表わしたものが出ていると言えましょう。
そして、主は続けて言われるのです。「あなた方はなぜ、臆病な者であるのか、まだ、信仰を持っていないのか」と。
神の国、神の支配が、主イエスと共に、既に現在していることを、主イエスは、この航海の前に、弟子たちもいる中で、譬え話で、じゅんじゅんと説いたばかりでした。
それなのに、弟子たちは、まことの命の実を結ぶ者とされていることを、不意に襲った嵐の中で、肉体的な危急の中で忘れていたのです。
彼らは、この出来事に大いに恐れさせられ、互いに言うのです。「この方は一体誰だろう、海も風もこの人の言うことを聞く」と。
このお方は、私たちが真の危急に面した時にも、どのような苦境に立たされても、そこから救い出して下さるお方であります。そして、たとえ、この地上の命の今わの際においても、共にいて下さる方であります。ですから、私たちは、たとえこの世の命の終わりの時にも、この方が「あなたは恐がらなくてもいい」と言って下さる方なのです。私たちの罪のために十字架におかかりになり、そのご復活し、私たちに朽ちることのない命を与えて下さる唯一のお方が、既にここにお出でになっておられるのであります。アーメン。


スポンサーサイト
2015/07/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。