津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「神の恵みに身をゆだねよう」(マルコ4:26-34)
マルコ福音書4章26節-34節、2015年7月12日、聖霊降臨後第7主日礼拝(典礼色―緑―)、エゼキエル書17章22節-24節、コリントの信徒への手紙二6章1節-18節、讃美唱92(詩編92編2節-10節)

マルコによる福音書4章26節-34節
 
  また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。譬えを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。







説教「神の恵みに身をゆだねよう」(マルコ4:26-34)


今日の讃美唱、詩編92編2節から10節は、その詩人のひたむきに、主に信頼する讃美が、素直に表明されています。「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは」と歌い始め、終わりも「あなたに敵対する者は、必ず滅び、悪を行う者は皆、散らされていきます」と正しい者の信仰は必ず祝福されると、信じて疑わない者のようであります。


次に第1の朗読、エゼキエル書17章22節から24節では、主なる神が約束して、語っています。私が、レバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上にそれを移し植えると。


そして、今日の福音書に出て来ましたように、その木のもとに、あらゆる鳥がやどり、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになると主なる神が約束されています。この若枝とは、メシアのことを指しており、終わりの日に異邦人たちが、神の民イスラエルのもとにイスラエルの神の被護を求めてやって来ることを預言していると解釈されています。私、主なる神が、高い山を低くし、低い山を高くし、生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせると約束され、主である私がこれを語り、実行すると約束しておられるのです。


更に、第2の朗読、コリントの信徒への手紙二6:1-18で、パウロは、神から受けた恵みを無駄にしてはいけないといましめ、自分はどんな場合にも、神に仕える者としてその実を示していると言います。そして、どのような迫害や困難にあっても、それに耐えることができ、逆に好評を博するような順調な時にも、奉仕の務めが非難されないように努めていると、真理の言葉、神の力によって恵みに常に生かされていると証ししています。そして、キリストとベリアルとどんな調和があろうかと問いかけ、神の神殿として歩み、不信仰から、信仰へと進み、神の息子、娘となるように諭しています。


さて、今日の福音、マルコ4章26節から34節は、4章1節から始まった神の国の譬えの部分の締め括りの記事であります。それは、湖辺に集まって来た群衆に対して、小舟に主イエスがお乗りになり、小舟に座って語られた譬え話として、始まっています。

主は、ここで初めて、その教えをより具体的に、分かりやすい民衆の体験や日常生活の身近な譬えを通して教え始められます。それは、神の国の譬えでありました。神の支配が、主イエスの到来と共に始まっており、主イエスと共に既に現在していることを説き始められていたのであります。

しかし、主イエスは、10節以下をみますと、イエスおひとりになられたとき、12人と主イエスの周りにいた人々にして、あなた方には、神の国の秘密が打ち明けられるが、外の人々には、すべてが譬えで示されると言われています。そして、「種蒔きの譬え」を弟子たちには説明されています。

それから、神の国に関わって、主イエスが語られた言葉、マタイ福音書では色々な所に分散している言葉が、ひとまとめて出てきます。マルコ4章10節以下25節までも、これは、マルコ福音書記者がよく用いるサンドイッチ構造だと考えることができます。

ともし火を升の下に置く者はいない、あるいは、持っている者はますます豊かになり、持っていない者はますます貧しくなると、主イエスは、御自身をともし火にたとえ、それを、私たちが見えるところに、家いっぱいに掲げるように励まされ、あるいは、神の国の譬えに耳ある者は、さらに深く聞き、その意味を悟りなさいと招いておられるのです。


そして、今日の福音の部分に入ります。これは、再び、4章1節以下につながる群衆に向けて語られたみ言葉であると考えられます。二つの、神の国の譬えでありますが、いずれも、「そして、彼は語っておられた」と始まっています。

最初の譬えは、農夫が土の上に種を蒔くという、きわめて日常的な譬えであります。ある人が地上に種を蒔いたというのです。そして、夜昼、彼は寝起きしているのです。創世記の始めを読むと、神が天地を造られたとき、夜があり昼があったと出てきます。ユダヤの人々にとっては、日没から新しい一日が始まります。安息日は、主なる神が、七日間で天地万物を造られて、お休みになった金曜日の日没から土曜日の日没まででありますが、農夫も働きを終えた夜寝るときから、新しい一日が始まります。

この譬え話は、他の福音書には出て来ません。一読しただけでは、単純な、ありふれたたとえのようで、主イエスの意図されたところはつかみどころがないように思われますが
、24節で「何を聞いているかに注意しなさいとあるとおり、耳を澄まして聴きとる必要があります。

この農夫は、種を蒔いた後は、日常生活に戻った中で、その種が芽を出し、成長していくわけですが、それがどのようにして、そうなるのかは知っていません。そして、主はひとりでに、土は実を結ぶと言われます。この「ひとりでに」というのは、見える理由もなくといった意味で、私たちの目では分からない、神の力によってという意味です。特に古代の主イエスの時代の人々にとって、蒔かれた種の成長は、特別な奇跡のように思われたでしょう。

見えない、隠された神の力によって、その土はまず、草をもたらし、次に、穂を、さらに、穂の中に豊かな実をもたらすのです。

そして、その実が熟した時、文字通りには、その実が許したとき、彼はただちに、小鎌を入れます、なぜなら、収穫の時が来たからだと、主は言われます。これは、ヨエル書のみ言葉から来ています。そこでは、終わりの日の神の厳しい裁きが言われていますが、主イエスは、神の言葉を蒔いたその完成の時、その喜びの時が、既に今、主イエスの宣教と共に来ていることを言われているのです。

主イエスは、サタンとの荒れ野での40日間の試みに打ち克たれつつ過ごされました。そして、ガリラヤに現れ、「神の国は近づいた、あなた方は悔い改めて福音を信じなさい」と宣教の第一声を上げられましたが、この譬えを語っておられる主イエスと共に、神の国、神の支配あるいは統治は、既に現在し、実現していると、言われるのであります。

「そして又、彼は語っておられた」と主イエスは、今日の個所で2つ目の譬えに入られます。神の国を、我々は、どのように譬えようか、あるいは、それをいかなる譬えで示そうかと、主イエスは慎重を期して、次の譬えを人々に問いかけます。

すなわち、一粒の芥子だねにたとえられるのです。主イエスは、その当時のユダヤの人々がよく用いた、その始まりの取るに足らない小ささと、その結末の、その目を見張る大きさの代表としての、芥子だねを、神の国の譬えとして、お選びになりました。弟子たちにも、「あなた方に芥子だね、一粒ほどの信仰さえあれば、その通りになる」とお語りになった、親しみのあるたとえであります。

それは、地上に蒔かれる時には、地上に蒔かれるあらゆる種の内で最も小さいが、それは、蒔かれると、伸びていき、すべての野菜の内で最も大きく成り、大きな枝を張り、空の鳥たちが、その陰に巣を作れるほどになると言われるのであります。

その空の鳥たちが、その陰に巣を作るほどになるという言葉は、今日の旧約聖書の朗読のエゼキエル書17章23節等から来ています。それは、主イエスがお出でになり、また、その弟子たちを通して、教会が、今は小さいけれども、やがては全世界に広がって行くことを、主イエスが、保証されているみ言葉として受け取ることもあながち間違ってはいないと思います。

神の国、神の支配は、キリストと共に、そして、その民である教会と共に始まっていると、弟子たちに保証し、今の教会を励ましているとも言えるのであります。

主は、この二つの神の国の譬えを、湖辺での群衆に語り始めた種蒔きの譬えの終わりにお語りになりました。そして、この譬えの締めくくりとして、4章の33節と34節にマルコは、次のように記しました。

そして、そのような多くの譬えでもって、主はみ言葉を語っておられた、彼らが聞くことができるのに応じて、そうしておられたと。一方、譬えなしには、彼は彼らにしゃべってはおられなかったが、一方、弟子たちには、ひそかに、すべてのことを解釈し説明しておられた、というのであります。

では、どうして、主イエスは、人々には譬えで話し、譬えなしには語っておられなかったのでしょうか。それは、日常のありふれたこの世界の中に、隠されてではあるけれども、既に、主イエスのお出でになられたのと共に神の支配が来ていることを伝えるためには、今日語られているような譬えの形でしか表現できないものであったからであります。

神の国は、大げさな奇跡のように来るものではなく、日常の取るに足らない出来事、身近な出来事を通してしか、譬えるのがふさわしくないものだからであります。主イエスは、神の国はあなた方の間にあるとも言われました。しかし、それは、主イエスの宣教と共に、確かに始まっており、確かな喜びの実りを既にもたらしているのであります。

主イエスは、群衆には、その聞くことのできる力に応じて、譬えで語られ、御自分の弟子たちには、密かに、すべてのことを解釈し、教えておられました。この「すべてのこと」のうちには、主イエスの十字架、そして、ご復活のことも含まれていたでありましょう。それは、主イエスに定められたその時まで、すなわち十字架の後になるまで、弟子たちにも理解できなかったことであります。

私たちにとっても、神の国、神の揺るぎない支配を信じることができない試練の時がしばしばあります。けれども、今日なさった主イエスの二つの譬えにあるように、神の支配は今は隠されていても、確実に始まっており、また、今は小さくても、芥子だねのように大きな結末が約束されているのであります。この神の恵みに身をゆだねて、1週間ごとの信仰生活、そして、週ごとに新たな教会生活へと出て行き、共々にみ言葉の種蒔きに励もうではありませんか。



祈ります。

天の父なる神さま。
 み言葉の種蒔きに、絶望することなく、あなたのみ恵みのうちに、日々の家庭生活、職場の生活をあらせてください。そして、あなたが治められる御国の一員として、喜んで、それぞれの務めに勤しむ者とならせてください。キリストのみ名によって祈ります。
スポンサーサイト
2015/07/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。