津田沼教会 牧師のメッセージ
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「サタンを滅ぼす約束」(マルコ3:20-30)
マルコ福音書3章20節-30節、2015年7月5日、聖霊降臨後第6主日礼拝(典礼色―緑―)、創世記3章8節-15節、コリントの信徒への手紙二5章11節-15節、讃美唱130/2(詩編130編6節-8節)

マルコによる福音書3章20節-30節
 
  イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。




説教「サタンを滅ぼす約束」(マルコ3:20-30)

 安全性が世界で最も高いとされてきた新幹線で、焼身自殺とそれに巻き込まれた死者がでました。また、母乳であるとの通信販売で、実際には、未熟児には危険な、偽った飲料が出回ったりしている昨今であります。そもそも、人間の罪とは、あるいは、サタンとは、どこから現れたのか、をも、改めて考えさせられます。

 今日の日課の創世記3:8-15は、アダムとエバが取って食べてはならないと神に命じられていた「善悪を知るの木」から、蛇にそそのかされて、食べたことから始まります。
 しかし、そこで、既に神は、エバの末から、蛇の末の頭を打ち砕く救い主を約束されています。

 第2朗読のコリント第2のパウロの言葉も、キリストの愛が私に迫っている。罪なき人が、罪ある者たちのために、死んで下さった。それゆえ、今からは自分のために生きるのではなく、私たちのために死んで下さった方のために生きようと奨めています。

今日の讃美唱、詩編130:6-8も、「我、悩みの淵から、汝に呼ばわる」と始まる、ルターが特に愛した詩編の一節で、エルサレムの城壁を守る夜営が朝を待つにもまして、私はあなたの贖い、神の約束の言葉を待ちますと歌っています。

 さて、今日の福音はマルコ3:20-30であります。マルコ福音書は一番早く書かれた福音書で、ここでは、サンドイッチ方式で、3:20-35まで書かれています。主イエスは家へと入られます。そして、大勢の者が、主イエスに従って、押し迫って来ます。
 神の国が、主イエスと共に、既にここに到来しているのです。

 肉のままなる主イエスの身内の者たち、これは、3:31-35で、その母や兄弟たちであることが分かりますが、彼らは、主イエスが木が変になっていると思って捕まえに来ます。しかし、真の兄弟、真の母とは、主イエスに従う弟子たち、また、従って来る群衆の中にこそ、存在するのです

 主イエスの福音に敵対する肉親の兄弟たち、また、エルサレムからの律法学者たちがいます。律法学者たちは、主はベルゼブルにとりつかれているとし、サタンの長がサタンを追い出していると言います。

 しかし、主は、サタンより強い者としてお出でになり、サタンを縛り、その家の財産、すなわち、サタンに取りつかれていた者たちを、分捕り、自分の者とされるのです。

 私たち、人間のどんな罪も、神冒瀆の言葉も、主イエスの到来によって赦されている。しかし、主イエスと共に来た聖霊を冒涜する罪だけは、永遠に、終わりの裁きの時にも赦されないと言われます。主イエスを汚れた霊を持っているという律法学者たちや肉なる者の身内は赦されないというのです。

 荒れ野での40日間のサタンとの戦いにおいて、主イエスはサタンに打ち克ち続けられました。サタンを滅ぼすとの創世記3:15の神の約束は、実現されています。このお方の到来と共に、神の支配は、既に実現しています。

 私たちは、この主に従い行く者であります。多くの試練や挑戦は続きますが、究極的には、主と共に歩まされています。キリストの愛が、私に迫って、もはや自分のためでなく、他の人のために、十字架を主と共に担う道を歩まされています。アーメン。

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2015/07/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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