津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ガリラヤの春」(マルコ3:1-12)
マルコ福音書3章1節-12節、2015年6月28日、聖霊降臨後第5主日礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書58章11節-14節、コリントの信徒への手紙二5章1節-10節、讃美唱81(詩編81編2節-11節)

マルコによる福音書3章1節-12節
 
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。


説教「ガリラヤの春」(マルコ3:1-12)

 今日の福音の記事、マルコ3:1‐12は、マルコ3:1-6と後段の3:7-12から成っています。前段の3:1-6は、5つの論争物語の5番目のものであります。それに、続くいわば要約文が今日の日課として与えられているのであります。
 今日の説教題を「ガリラヤの春」としましたが、今日の記事は、既にこのガリラヤの春と呼ばれる、主イエスの神の国の宣教が、十字架の兆しを含んでいる、そういう意味では逆説的なものであったことを、示しています。
マルコのこの5つの論争物語は、最初のものと、今日の5番目のものが、いわば、対照をなしており、残りの3つのものは、イエスとその弟子たちの飲み食いに関わるエピソードから成っています。2つ目はなぜ、主イエスは徴税人たちや罪人たちと飲食を共にするのかであり、3つ目は、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは、断食するのに、イエスの弟子たちは、それをしないのかというものでありました。
 そして、先週の4つ目は、安息日に、主イエスの弟子たちが麦畑で歩を摘んで食べるということは、安息日違反ではないかというものでした。
 そして、今日の出来事は、やはり、安息日に起こったものでありました。主イエスは、再び、安息日にシナゴーグへお入りになる。
 主イエスは、様々な場所で、福音を説かれ、活動なさっています。最初は、イエスの、あるいは、ペトロの家でありましたし、2番目は、レビの家であり、3番目は定かではありませんが、4番目は麦畑での出来事でありました。
 今日は、シナゴーグでの出来事であります。主イエスは、少なくとも、故郷のシナゴーグで公然と拒まれる頃まで、シナゴーグを神の国の開始、そして、既に主イエスにおいて到来していることを、説き明かされるのです。
 ところが、今日の場合は、そこに、片手の萎えた人が座り込んでいたのです。この時、既に敵意を持っていた一連の人々がいて、主が安息日に癒されるかどうか、主に敵意の眼差しを持って、見つめていたのです。
 主は、それを知って、人々の心の鈍さを悲しまされながら、怒りを持って、彼らを見回されます。そして言うのです。「律法で認められているのは、良いことをすることか、悪いことをすることか、魂を救うことか、それとも滅ぼすことか。」
 彼らは、それに対して答えるすべがなく、皆黙りこくっていたのであります。そして、主はその人に、手を差し出しなさいと、「真ん中に立ち上がりなさい」と言っておいた後に言われたのです。すると、その手は、見事に元の状態に回復されたのでありました。
 これは、単なる奇跡にはとどまりません。主イエスが来たのは、神の支配が、来たのであり、それを信じず受け入れないことこそ、悪を行うこと、引いては魂を滅ぼすことでありました。
 この癒された人間は、ただ身体の回復を与えられたにとどまらず、魂の救いをもこの時受けたのであります。主がお出でになられたのは、このように健全でまったき霊肉へと、人間を回復させるためでありました。しかし、人々はそれには気付かぬ鈍い心に支配されていたのです。
 その筆頭であるファリサイ派は、そこから出て行き、すぐに、あのヘロデ・アンチパスを信奉し、権力と一体となったヘロデ派とまで結束し、主イエスを亡き者にしようと、この時からすでに計略を、共に凝らす者たちとなっているのであります。
 主イエスの受難と十字架は、その最初の「ガリラヤの春」から同時に始まっていたのであります。それに加えて、マルコ3:7-12が、今日の日課として加えられているのはなぜでしょうか。5つの論争物語の締めくくりとして、また、新しく実際始められる主イエスの働きと、周りに及ぼした反響を、ここに、マルコは、差し挟んでいるのであります。
 すなわち、彼は、そこから出て、海のほとり、ガリラヤ湖の湖辺へと立ち去られるのです。主イエスの福音を受け入れるのは、湖辺に集まるおびただしい、多数の者たちでありました。
 ガリラヤ地方から始めて、ユダヤ、イドマヤ、ヨルダンの向こう側や、チロスやシドンからさえも、主イエスのなさっておられるすべてのことを聞いて、従い、押し寄せてくるのであります。
 5つの論争物語と、この癒しを求めてやって来る夥しい多数の者たちとの違いは何を意味するのでありましょうか。病気、あるいは、これは天からの鞭とも訳せる言葉ですが、そのように病んでいる者が、癒されるために触れようとしてやって来るのであります。
 主は、それに押しつぶされないために、弟子たちに、小舟を用意させるのであります。
主イエスのそのみ業と、み言葉において、神の国の良き訪れは既に来ているのであります。そして、今もその主イエスの良き知らせは、私たちの許に到来しているのであります。
 私どもは、罪多く弱い者でありますが、主イエスにおいて、今日の手の萎えた人と同じように、罪から癒され、まったき命と生活を与えられているのであります。
 かの文豪ゲーテは、その生涯を顧みたとき、自分の生涯で本当に幸せだったと言えるのは、1月にも満たないであろうと、振り返ったと言います。
 私どもは、ゲーテとこの世での業績においては及ぶべくもありませんが、少なくとも、今日の片手の萎えた人と共に、主によってまったき生活を回復されている存在であります。
 主イエスによって、快活で健全な、まったき生活ができる者へと招かれている一人一人なのであります。その主に従って行く幸いを与えられた者として、この1週間も、希望を持って歩み出したいと思います。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。       
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2015/06/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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