津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「安息日に憩う」(まるこ2:23-28)内海望牧師
マルコ福音書2章23節-28節、2015年6月21日、聖霊降臨後第4主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、サムエル記上6章1節-6節、コリントの信徒への手紙二4章7節-18節、讃美唱81(詩編81編2節-11節)


マルコによる福音書2章23節-28節
 
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。



説教「安息日に憩う」(マルコ2:23-28)内海望牧師

 先週同様、ここでも、イエスさまとファリサイ派の人々の考え方は噛み合いません。その理由は、律法理解の違いにあります。更に、その根底には、律法を利用して自分を正しい者としたいという人間の原罪が潜んでいます。
 先ず律法理解です。27節でイエスさまは、「安息日は、人のために定められた。」とおっしゃいます。律法は人間が人間らしく喜びに満ちた生活を歩むための道しるべとして、神さまが与えて下さった賜物であるとおっしゃるのです。あるいは、人間が、誤って道から転落しないように神さまが設置して下さったガードレールと言ってもよいでしょう。
 実際、モーセから戒めを与えられた時、民は喜んで、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います。」と一斉に答えています。(出エジプト記19章8節p.125、24:3)
民は賜物として受け取っているのです。
 それでは、実際の安息日の戒めを見てみましょう。出エジプト記20章8節以下(p.126)。
何と喜びに満ちた文章でしょうか。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々(異邦人)も同様である」。これは、奴隷制度のような、当時の社会制度の問題は別にして、男女の違い、身分の相違、民族(宗教)の壁を越えて、すべての人々に、労働から解放される憩いの時を与えよ」という戒めです。その恩恵は、家畜にまで及んでいます。素晴らしい賜物です。
 ところが、今日の福音書のファリサイ派の人々はどう考えていたでしょうか。
 当時の律法学者たちは、例えば、この戒めの「いかなる仕事もしてはならない。」という言葉の厳密な言葉の定義をめぐって議論を重ねます。その結果、「何歩以上歩くのは労働になるから、それ以上歩いてはならない。」というような規定を作るのです。これなどは、まだユーモラスな感じがします。しかし、律法の一つ一つについて決めて行くので、実に煩雑な規定集が生まれたのです。それによると、「麦の穂を食べることは許されているが(申命記23:26)「摘む」という行為は脱穀に当たるので労働だからしてはいけない」ということになるのです。この規定に則って、今、ファリサイ派の人々は、イエスさまの弟子たちを、律法違反のかどで告発しているのです。「律法を正しく守りたい」という初めの発想は純粋だったでしょうが、いつの間にか、律法を盾にして、人を裁く、縛る道具にしてしまったのです。「人を裁く」ということは、自分を正しい人間だとして、自己を高めるということです。
 ここから、私たち人間は、一直線に、自分を神の位置に置き、絶対自分が正しいと言い張る自己絶対化へと転落していくのです。すべての憎み争い、民族間の紛争などは、「自分は、絶対に正しい」という主張に基づいています。「絶対的正義」のぶつかり合いこそ戦争です。
 ところが、自分を神のように絶対化することは、アダムとエバがそうであったように、人間が最も心動かされる魅惑的な誘惑なのです。
 アダム以来、この自己を神とするという罪は全人類に及んだと聖書は語ります。(ローマ5章)。原罪です。
 しかし、ここで、私たちがしっかりと立ち止まって、考えなければならない事実があります。それは、私たちもまた原罪から自由ではないということです。
 その証拠に、私たちの周りには、必ず「間違った人」がいます。その時、同時に、「間違っていない私」が存在するのです。知らずに、私たちは、人を裁く者となっているのです。そして、「わたしは間違っていない。正しい。」という「安心」を手に入れるのです。この事実を否定することは出来ません。
 ここにおいて、今日の福音書は、私たちの問題となって来るのです。
 私たちは、「イエスさまとファリサイ派の人々の会話」を読んでいますが、実は、これは、「イエスさまと私たちの会話」であることに気付かされるのです。今日の聖書は、私たちにその事実を気づかせるのです。ファリサイ派の人々の言動を見ていて、「それは私の姿だ」と気付かされるのです。この「気付く」ということが大切です。私たちは、たいていの場合、自分の罪に気付かず、他人を批判しているのです。ダビデ王がそうでした。
 私たちは、神さまが設けて下さったガードレールを乗り越え、転落してしまった罪人なのです。「気付く」ということは、まことに恐ろしい自己認識なのです。
 では、私たちは転落してしまった、滅びに定められた罪人で終わってしまうのでしょうか。

 断じてそうではありません。救いはあります。今日の聖書で、モーセでなく、イエスさまが、「安息日は、人のために定められました。」と改めて語っていらっしゃる点に目を向けて下さい。イエスさまは、まさに、ガードレールから転落してしまった罪人を救うために、この世界に来て下さった方なのです。そのために、ご自分の命さえ惜しまれなかったのです。
 イエスさまは、ご自分の十字架の死をかけて、安息日の主になって下さったのです。イエスさまと共に、新しい時が始まったのです。イエスさまの愛によって、「安息日を、心に留め、これを聖別せよ。」という戒めが、新しい風光を帯びて来ます。
 ルターは、「エンキリディオン―小教理問答」で、この安息日の戒めを、「私たちは神を畏れ、愛するのだ。だから、私たちは説教やみことばを軽んじないで、かえってこれを聖く保ち、喜んで聴き、学ぶのだよ。」と解説しています。説教という言葉が出てくることによって、これが礼拝のことを指しているのは明らかです。「安息日を心に留め、聖別せよ。」という戒めを守ることは、礼拝を大切にすることだとルターは言うのです。私もそうだと思います。
 それでは、礼拝を大切にするということは、どのようなことでしょうか。ルターが言うように、それはみ言葉を大切にし、喜んで聴くことです。
 私たちは、礼拝で、どのようなみ言葉を聴くでしょうか。それは、神さまの独り子であるイエスさまが、神さまの身分を捨て、人となり、私たちすべての罪人の罪を追い、十字架に死に、死に打ち勝ち、復活されたという出来事です。つまり、イエスさまの十字架と復活によって、ガードレールを飛び越えて転落してしまった私たちがもう一度引き上げられ、罪赦された罪人として、新しい命が与えられたという救いの出来事を聴くのです。しかも、安息日の主として、イエスさまは、今日も、私たちに、この救いの確かさを伝えて下さっているのです。
 このイエスさまの十字架による救いの事実を信じ、感謝と喜びの時を過ごすのが、礼拝を大切にするという意味です。

 この一週間、私たちはいろいろな罪の重荷、思い煩いを背負って生きてきました。自分や家族の健康のこと、親の介護、子どものこと、隣人のこと、家計のこと、政治経済のこと、それにも増して、犯してしまった罪の数々、思い悩むこと、思い煩いは数え上げればきりがありません。
 重い足取りで、教会の門をくぐった方もいらっしゃるでしょう。しかし、イエスさまは、すべての罪を赦し、すべての思い煩いを私に委ねなさいとおっしゃるのです。ルターは、「すべてをお委ねした時、神さまが、私のことを心にかけて下さっていることを経験するだろう。捨てられていないことを経験するだろう。」と語っています。確かにそうです。イエスさまは派、全く真剣に、私たち一人一人を心にかけて下さっているのです。この喜びを経験する時が、礼拝の時です。安息日は、まさに心と体の憩いの時なのです。
 イエスさまのみ言葉によって、再び、安息日の戒めが賜物として取り戻されたのです。ほんとうに嬉しいことです。
 今日の福音書の少し前のマルコ2章11節で、イエスさまは、寝たきりの中風の人に向かって、「あなたの罪は赦された。起きて、床を担いで、家に帰りなさい。」と命じていらっしゃいます。すると、「その人は起き上がり、すぐに床を担いで出て行った。」と報告されています。これは、福音書の中でも、特に印象的な箇所の一つです。
 自分の力で歩くことも出来ず、ベッドに縛り付けられた生活を余儀なくされていた人物が、そのベッドを担いで軽やかな足取りで家族の許に帰って行ったのです。
 そうです。もし、私たちが、今日、重い足取りで教会に来たとしても、イエスさまが、すべての思い煩いを担って下さり、罪の赦しと、新しい復活のいのちを与えて下さったことを確かな事実であると信じるならば、私たちもまた、あの中風の者と同様、必ず足取りを軽くされ、軽やかに家路に就くことが出来るのです。これこそが、安息日の喜びではないでしょうか。この安息日の憩いを与えられ、新しく生きる力を与えられた喜びを共に分かち合いながら、新しい一週間を歩みましょう。




スポンサーサイト
2015/06/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。