津田沼教会 牧師のメッセージ
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「新しく生きる」(マルコ2:18-22)
マルコ福音書2章18節-22節、2015年6月14日、聖霊降臨後第3主日礼拝(典礼色―緑―)、ホセア書2章16節-22節、コリントの信徒への手紙二3章1節-6節、讃美唱103(詩編103編1節-13節)


マルコによる福音書2章18節-22節
 
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食していないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」







説教「新しく生きる」(マルコ2:18-22)

 第1の朗読のホセア書では、ホセアは、背信に走っていた女の人を妻に迎えますが、その彼女でたとえられる、イスラエルに対して、彼女、イスラエルはもはや、私、主なる神を、「わが主人」とは呼ばず、「わが夫」と呼ぶようになると主なる神は言われ、その日には、野の生き物や空の鳥とも、契約を結ぶと言われ、私は「あなた、イスラエル」ともまことの契りを結び、あなたは、私を知るようになると約束されています。

旧約の時代に、既に、人間と神との関係は、妻と夫のように親しく深い関係であり、やがて、主イエスによって、そのことの実りが与えられることを、神は約束しておられるのであります。神と私たちの関係は、夫婦の関係のように、どこまでも深く交わっていくものであります。

 また、第2の朗読、Ⅱコリント書3:1-6では、パウロは、コリントの信徒の人々を、あなた方こそ私たちの推薦状であると言い、あなた方は、キリストが私たちを用いて書かれた手紙であり、石の板ではなく、聖霊によって人の心の板に書きつけられた手紙であり、神は私たちに、新しい契約に仕える資格、すなわち文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さった。文字は、律法によって、私たちの罪を裁断し、私たちを殺すものであるが、聖霊は私たちを生かし、命を与えるものであると言っています。

さらに、讃美唱、詩編103:1-13は、私の魂よ、主をたたえよ、で始まり、主はお前の罪をことごとく赦し、命を墓から贖いだして下さると詩人は、主をほめ歌い、天が地を越えて高いように、慈しみは、主を恐れる人を越えて大きく、東が西から遠いほど、私たちの背きの罪を遠ざけてくださると、慈しみと赦しの神をたたえ、歌っています。
 
そして、今日の福音、マルコ福音書2:18-22は、断食を巡っての論争であります。先週は、なぜ、主イエスは、徴税人や罪人たちと食卓の交わりをし、その仲間となるのかとのファリサイ派の呟きに対する論争でした。ある人々は、ガリラヤ宣教の進んだこの時期を「ガリラヤの春」とまで賞賛し、主イエスの宣教が順調であった時代を評していますが、よく見ると、マルコ福音書のこの初期の2章から3章に入りかけた論争のはじまりにおいて、既に十字架の影が差しているのであります。

マルコ福音書2:1から3:6まで、5つの論争が続く中、今日の記事はその中核に位置しています。私たちは今は断食しないという主イエスの弟子たちの意志表明であります。

断食は、古今東西を越えて、あらゆる宗教に存在するとも言えるものでありましょう。たとえば、現代史では、私たちは、英国の植民地支配に抵抗して、20日ほどでありましたか、わずかの水分補給をしながら、生死の境目まで戦ったマハトマ・ガンジーの例を思い起こします。旧約聖書では、悲しみの出来事、たとえば、サウル王と王子ヨハタンがタボル山で討ち死にした時、近くの部族が遺体を弔って、喪に服し、断食したことが記されています。
 
また、主イエスも、公生涯の始まる前に、荒れ野で40日間の断食をして、悪魔と戦いましたし、断食を禁止しているわけではなく、断食をするときには、それが人に気づかれないように頭に油を塗りなさいとも奨めておられます。

 
今日の記事では、断食が行われていた時や場所やこの出来事、論争が起こった状況は、何も記されていません。しかし、ヨハネの弟子たちが、断食をしているときに、断食をしないイエスの弟子たちのところに人々が来た格好になっていますから、洗礼者ヨハネが命を絶たれたあとの出来事であったかもしれません。
 

ヨハネの弟子たちや、ファリサイ派が断食をしていたときに、彼ら、すなわち、一般の人々がやって来て、質問して言うのであります。

「あなたの弟子たちは、なぜ、彼らと違って、断食しないのか。」これに対して、主イエスは、言われるのであります。

「婚礼の客は、花婿といるときに断食出来ようか」と。婚礼の客と訳されているのは、「花嫁の部屋の息子たちが、彼らと共に、花婿を持っている時の間は」とも訳すことができ、花婿の友人たちであり、花婿の付添人、介添え人が、主イエスの弟子たちであると言われるのであります。

イエスの弟子たちは、まさしく花婿の友人たちであると主ははっきりと言われるのであります。旧約聖書の時から、終わりの日にメシアがお出でになり、あるいは、神の子がお出でになって、祝宴が持たれると信じられてきました。そして、そのメシアは、主イエスであり、花婿であり、花嫁は教会であるということになります。
 
待たれていた神の国が、主イエスにおいて、既に来たと主イエスはここで言われるのであります。その婚宴の喜びと祝いのときに、その付添人である主イエスの弟子たちは断食出来ようかと言われるのであります。

洗礼者ヨハネの弟子たちは、荒れ野のヨハネと同様に厳格で、禁欲的な生活をし、ヨハネの死に面して断食し、喪に服しておりました。

また、ファリサイ派も厳格な断食を試み、週に二回、断食を守っていました。あの徴税人と共に神殿に祈りに来たファリサイ派の人が、それを誇った通りであります。

そのような、言わば、自力による禁欲的で、一般の人々には、とうていできっこない道徳的な苦行、その身を命の限界にまで追いやるような、当時の人々の敬服を集めるような厳格な断食を、両者とも守っていたのであります。
 
しかし、神の国、神の支配が、主イエスにおいて、既に現在している今、イエスの弟子たちは、イエスと共に祝宴の中にいるのであります。そして、先週読みましたように、主イエスは、そして、その弟子たちは、それまでは、救いから漏れていると考えられていた徴税人や罪人たちと懇ろな食卓の交わりに、既に生きていたのであります。
 
しかし、主は続けて、花婿が奪われる日々が来るであろう、その日には、彼らも断食するであろうと言われます。この5つの論争の始まったばかりの中で、マルコによる福音書3:6では、既に、これらの論争の後、ファリサイ派や、ヘロデ党の者は結託して、主イエスを殺そうと早速画策し始めているのであります。
 
その意味で、この主の言葉は、既に暗示的な受難予告の言葉と言えるのであります。そして、主イエスの受難と十字架の死のとき、弟子たちは羊飼いを打たれた羊のようにばらばらとなり、嘆き悲しむ喪の日を迎えることになります。

その点について、ヨハネ福音書では、あなた方は、羊のように散らされて、私を見捨て、悲しみに沈むことになるが、しかし、あなた方は、子を産む時の母親は悶え苦しむが、生まれた後はその苦しみを、もはや憶えておらず、新しい命が誕生したことで、喜びに満たされるように、あなた方も喪の後に喜びに生きるようになると、最後の晩餐の席で主イエスは語っています。

その予告通り、主イエスの弟子たちも、花婿イエスが奪い取られる時に、喪に沈む断食をするであろうと、主イエスは質問しに来た人々に宣言されるのであります。
 
この前半の言葉に続けて、主は、その弟子たちが断食しない理由を、さらに二つのたとえ、あるいは格言とでも言うべきみ言葉を用いて、答えるのであります。
 
それ、特に前者のみ言葉は、特に家庭の主婦にとっては、明々白々たる例、あるいはたとえであったでありましょう。だれも、古い服に新しい布で継ぎ当てをする者はいない。もし、そんなことをすれば、その新しい布地は、縮かんで、古い上着の糸を引っぱり、上着の穴、裂けていた部分は、ますます悪く大きくなるだろうと、言われます。

私の子ども時代の頃までは、日本でも継ぎを当てたズボンや洋服、靴下などを身につけているのが普通でしたが、今ではほとんど、継ぎの当てた服を着ている子どもの姿は見えなくなりました。主イエスの時代には、古い着なれた上着の裂け目を、特に主婦は、新しい布切れではなく、上着と同じように布地をさらして、衣服をことのほか、大事に使ったことでしょう。
 
さらに3つ目の断食しない理由を付け加えます。そして、また、新しいぶどう酒を古く壊れかけているような革袋に入れて保存しようとする者はいないではないか。もし、そんなことをすれば、ぶどう酒も、多くの革袋も、共にだめになり、失われてしまうことになる。

そして、マルコは、主の言葉として、結語として「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」入れるべきだと記すのであります。
 
古い服と、真新しい継ぎ当ての布地が、まったく合わないように、また、醗酵しているぶどう酒は、古い革袋を破裂させてしまうように、洗礼者ヨハネの弟子たちの禁欲的な生き方、また、律法と規則づくめのファリサイ派の宗教と、主イエスの人格とふるまいにおいて、既に来ている神の国という良き訪れ、福音の知らせを、知っている弟子たちの生き方とは、まったく両立しない、相容れないものであることを、主イエスは、ここで宣言しているのです。
 
しかし、このことは、古い存在、古い服、古い制度や律法、あるいは旧約聖書がまったくすべて無意味になったことを意味するものでは必ずしもありません。

主イエスの弟子たちも、そして現在に至る教会も、もちろん旧約聖書をも用いて、礼拝もし、また、40日間のレントのときには、しばしば、教会でも断食をさえ取り入れて来ました。

しかし、私たちは、主イエスにおいて、罪赦され、神の支配がはじまり、喜びの知らせのうちに、生かされつつ、それまでとは全く違った新しいいのちの道を歩んでいるのです。この罪赦されて、生きる喜びを、私たちは、この「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という主イエスの標語、福音の宣言によって与えられているのです。

私たちは、この喜びに生きる新しい生き方を、主イエスの十字架と三日後の復活を通して、約束されています。それは、それまでの陰鬱な、自分で自分を縛り、人を裁く、自縄自縛の生活ではなく、お互いに罪赦された者として、喜びの食卓に生きる生活を、主イエス、花婿が、この地上から奪い取られる代価を通して、与えられています。

ルターは、キリストを信じる者が、何気なく草を引いたり、ごみを拾ったりするようなささやかなふるまいにも、大きな価値があると言いました。信仰を持って、つつましやかな家庭生活を送る。夫が妻を敬い、妻が夫に従い、睦ましく一生を歩み、食卓を共にしていく。その地味な、毎日の生活の中で、今日の主イエスのみ言葉、私たちは断食はしないで、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」との、まったく今までとは、質の違った喜びに生きる生活をしていくのです。

私たちの生活には、にもかかわらず、多くの試練や悩みが、1週間の間にも、責めさいなむように、訪れて来ます。しかし、私どもの避けどころは、聖書のみ言葉の中に、主イエスの福音の知らせの中に、宝のように存在しています。そして、主イエスを知らなかったそれまでとは、まったく異なる変わることのない喜びと希望を約束されています。週ごとに、その福音と、聖餐あるいはまた洗礼のもとに集められ、慰めを与えられる信仰生活を送ってまいりましょう。

祈ります。

天の父なる神さま。



御子イエスを、長らく待たれていた花婿、メシアとして、私たちに与えてくださり、この上ない喜びを与えられていることを有難うございます。この主イエスにつながり、まったく新しい人をこの肉なるからだの上に着せられて歩む日々となりますように、又、私たちをその良き知らせを運ぶ器、入れ物とならせて下さい。この祈りをキリストのみ名を通して、お献げいたします。アーメン。
















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2015/06/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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