津田沼教会 牧師のメッセージ
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「イエスに見留められ、応答する生涯」(マルコ2:13-17)
マルコ福音書2章13節-17節、2015年6月7日、聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、イザヤ書44章21節-22節、コリントの信徒への手紙二1章18節-22節、讃美唱130/2(詩編130編6節-8節)

マルコによる福音書2章13節-17節
 
 イエスは、再び湖海のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」



説教「イエスに見留められ、応答する生涯」(マルコ2:13-17)

今日から、また再び、マルコ福音書に戻って、三年サイクルB年の教会暦の後半へと入って行きます。聖卓や牧師の身につけるストールも緑に戻りました。これは、神の希望、ノアの箱舟の出来事の時、大洪水が引いたのを知らせた鳩が咥えて、帰って来たオリーブの葉の色でもあります。
そして、今日の福音は、論敵たち、ファリサイ派や律法学者たちとの5つの論争のうちの2番目に位置するものであります。
なぜ、あなた方の先生は、罪人や徴税人たちと、食事を共にするのかという、論敵たちの不平、つぶやきに対して、主イエスが答えた、み言葉であります。
さて、まず、主は、再び、ガリラヤ湖に赴かれ、集まって来た群衆に、教え始められます。
そして、そこから、引き上げるときに、カファルナウムの関税所のような場所で、机に向かい仕事をしながら、座っているアルファイの子レビを見出すのであります。
そして、彼を見つめ、私に従って来るようにと、声をかけられます。そのイエスの眼差しに応えて、レビは、立ち上がっていて行ったのであります。
マルコによる福音書によれば、その人の名は、アルファイの子レビで、他の聖書では、それに当たるのがマタイ担っているのですが、マルコ福音書、そして、いずれの福音書においても、アルファイの子レビという弟子は、この後一度も出て来ず、12使徒以外の弟子であるようであります。
12弟子に限られない、しかも徴税人が、イエスの眼差しを受け、その関税の仕事場から、立ち上がって、主イエスの弟子となったのであり、その意味では、彼は、私たち、後の弟子、信者の代表といってもいいかもしれません。
彼の家で、多くの仲間たちが集まり、主イエスとその弟子たちも、晩さん会に呼ばれて、正餐に与り、横になって、食事を共にしていたのであり、アルファイの子レビの仲間たちも、ぞくそくと集まっていたというのであります。
これを見たファリサイ派の律法学者たちは、つぶやき、なぜ、罪人たちと、あなた方の先生は食事を共にするのかというのであります。
主イエスは、「健康な者には医者はいらず、必要とするのは病人である」と言われ、さらに、なぜなら、「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためであるからだ」と申します。
言うまでもなく、ここで、病人とは、徴税人たちや罪人たちであり、健康な人、正しい人とは、ファリサイ派の律法学者たちでありました。
ここで、主イエスの本意は、神さまからも見放され、ユダヤの人々からも、地の民として、見放され、憎しみさえ受けていた、レビのような人が主イエスの十字架の死と復活によって、新しい生涯に移され、主イエスに応答する生涯を歩むことが急務でありました。
しかし、それは、正しいとされ、自らも、間違っていないと自負していたファリサイ派のような人々も、それを見て、まことの悔い改めに導かれ、主なる神の意志に立ち帰ることでありました。
私たち、すべての人間は、アダムとエバの堕罪の後は、神から外れた存在であるのです。ですから、主イエスの思いも、ファリサイ派の人たちが、これを見て、神の憐れみを知り、レビと同じように立ち上がって、主イエスについて来るようにとの願いでありました。
私たちは、日々の生活において、悔い改めることが、すべての人に必要であります。
信仰によって義とされると、ルターは言いましたが、彼はしかも、キリスト者の全生涯は、悔い改めの毎日であると言いました。
私たちは、今日聖餐に与りますが、それはまた、隣りに立つ兄弟の罪についても、祈る時でもあります。今日からのマルコ福音書に帰っての1週1週が、イエスのみ言葉とそのなされたみ業に思いを凝らす1週1週になりますように、心から願います。アーメン。
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2015/06/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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