津田沼教会 牧師のメッセージ
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「イエスとニコデモー神と人との平行線ー」(ヨハネ3:1-12)
ヨハネ福音書3章1節-12節、2015年5月31日、聖霊降臨祭聖餐礼拝(典礼色―白―)、イザヤ書6章1節-8節、ローマの信徒への手紙8章14節-17節、讃美唱19(詩編19編2節-15節)

ヨハネ福音書3章1節-12節
 
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなた方は新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」





説教「イエスとニコデモー神と人との平行線―」(ヨハネ3:1-12)

 今日は、再び復活節の時の白い聖卓の色となり、神の本質、また復活の主を表わす色であり、教会の信じる三位一体の神について考える、特別な主日となっています。
 私が、大学時代に、司法試験の勉強をしていましたころ、法律を勉強するには、六法の条文と判例と法律学の基本書が三位一体として、不可欠な、いわば三本柱であると言われていましたが、これは、聖書の神、教会が信じる神が三位一体の神であるというところから、用いられたものであります。三位一体の神とは、ひとりの神でありながら、3つの働きをする、すなわち、使徒信条によれば、創造主なる父、救済のために来られたみ子なるキリスト、そして、清めの働きをし、今も私たちを導く聖霊なる神として、ひとりの神の働きは3つの位格をとって、私たちに示されるのであります。
 今日の第1朗読のイザヤ書6章の始めの部分は、イザヤが神殿にいたとき、神が降り、セラフィムが現れて、聖なる、聖なる、聖なる万軍の主と、唱え、だれが、我々に代わって行くだろうかとのみ声を聞き、私がここにおります、私を遣わして下さいとの召命を受ける出来事であります。これは、神の霊が語りかけたと言えましょう。
 第2の朗読も、肉に従うのではなく、神の霊によって導かれる者は、神の子であり、キリストと共に神の共同相続人であると、パウロは語っています。
 今日の讃美唱は、詩編19編で「天は神の栄光を物語り、大空はみ手のわざを示す」と詩人は、被造物の世界を賛美しながら、主の律法や命令は完全で、心に喜びを与えるなどと、特に父なる神、創造主としての神への信頼をうたっています。
 今日の福音はニコデモとのイエスの対話、ヨハネ3:1-12となっています。三位一体主日になぜ、ここが選ばれているのでしょうか。それは、霊の働き、聖霊が私どもを新たに生かしめ、私どもを、まったく肉から生まれた者、人間のそのままの欠陥に満ちた存在を、上から、すなわち神から、霊によってもうけられた者に変えられるからであります。
 今日のすぐ前のヨハネ福音書2章の終りの記事を読むと、主イエスは、人間の心の奥底をよく知っておられ、人間を信用して、自分をおまかせになることを、なさらなかったとあります。
 イエスのなさった奇跡を見て、多くの人が、イエスの名を信じたが、イエスは、人間に信用なさらなかったというのであります。しるしを見て、イエスを信じるのでは、まだ不十分だということでしょうか。 
そこに、ユダヤ教の教師、律法学者であり、サンヘドリンの議員でもあり、この後には、イエスを守ろうとして、発言したり、さらに主イエスの十字架刑のあとには、アリマタヤのヨセフと共に、丁重に埋葬しようと、香料等を携えてやって来る者へと変えられているのでありますが、今日のところでは、霊から新たに生まれるということが、まったく分からない、ユダヤ教の代表として、主イエスの言葉を信じない者の代表として、登場するのであります。
 それは、夜のことでありました。昼は12時間あり、そのうちに歩めば躓くことはないと、主は言われましたが、ニコデモは、いまだ、光を知らず、闇になお属する者として現れたかのようであります。
 ラビ、あなたが神から遣わされた方であることを、私は承知しています。でなければ、あなたがなさっているようなしるしは、だれもできませんと、話しかけますと、主は、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと、答えます。
 ニコデモは、年老いてもいたのでありましょう、人は年を取ってもう一度生まれることなどはできませんと反論します。
 主は再び、よくよく、あなたに言っておくが、人は誰でも、水と霊とからもうけられなば、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は、肉であり、霊から生まれる者は霊であると重ねて申されます。ニコデモは、どうしてそんなことが起こりえましょうと、二人の対話は、今日のペリコペーにおいては平行線のままであります。
 そして、主は、風は思いのままに吹くが、それがどこから来て、どこへ行くのかはあなたは、知らない。霊から生まれる者もそのようであると言われます。
 私どもは、肉なる存在であって、欠けた器、欠陥をもった存在であって、そのままでは、神の領域に属する、すなわち神のもとに移ることはできない者であります。
 私の言葉に驚いてはならないと言われますが、ニコデモは、そんなことは起こりえないと、信じることができないままであります。
 イエスは、この地上のことを、私は語っているが、あなた方は信じないなら、天上のこと、神的なことを語っても、あなた方は信じるだろうかと、二人の対話は、今日のところは、平行線のままに終わっているのであります。
 しかし、この天的なことというのは、主イエスが天から来られ、また、天へと上って行かれる。そして、主は、十字架に上げられ、復活するのであり、天に戻られる秘儀が、この後に述べられて行くのであります。
 すなわち、人の子は、十字架に上げられ、復活して、死から上げられる、それが、神の栄光であると、ヨハネ福音書は語って行くのであります。
 私どもが、霊によって新たに上より、もうけられ、生かされていくことがなくてはならないのであり、肉なる、ありのままの人間にはそれは不可能なのであります。
 水と霊によって、すなわち、洗礼によって、古い体、肉に死んで、洗い清められ、霊によって新しく生かされていく。その意味では神の子として、もう一度、新たにもうけられる者とされていくように、この日のみ言葉は招いているのであります。アーメン。
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2015/05/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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