津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなた方は、私の友である」(ヨハネ15:11-17)
ヨハネ福音書15章11節-17節、2015年5月10日、復活後第5主日礼拝(典礼色―白―)、使徒言行録11章19節-30節、ヨハネの手紙一4章1節-12節、讃美唱98(詩編98編1節-9節)


ヨハネによる福音書15章11節-17節

 
 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」









説教「あなた方は、私の友である」(ヨハネ15:11-17)

 今日の第1朗読の使徒言行録では、ユダヤ人キリスト者たちが、アンティオキア教会で、最初はユダヤ人たちだけに宣教していたのを、やがて異邦人、ギリシャ人たちにも宣教するに至った経緯が記され、バルナバとパウロは、パレスティナで大地震が起こったとき、援助のためにエルサレムの教会に、献金(ディアコニア)を捧げたことが記されていました。
 復活の主を伝える教会は、物質的な援助の手をも、その基となっている教会に差し伸べる愛の共同体であることが示されています。

 第2朗読は、ヨハネの手紙一で、この手紙の記者は、子らよ、偽りの霊、偽りの預言者とまことの霊、神の霊を見分けるようにと促し、キリストが体をとって、お出でになられたことを告白するのは、正しい霊であると言い、キリストが御自身、人間のからだの形を取ってお出でになったことを、言い表わす者は、正しい霊によっていると、まさしく私たちと同じ人間の肉体となって来られたイエス・キリストを、信じるようにと奨めると共に、そのキリストの愛に応えて、何よりもまず、私たち兄弟間で愛し合おうと呼びかけています。

 今日の讃美唱、詩編98編は、新しい歌を歌おう、イスラエルの民に恵みと慈しみを与える、主なる神をたたえようと主の民であることの喜びを歌っています。そして、その主は、地を裁き、世界を裁くために来られる、全世界は喜び歌えと、王なる主の御業を賛美し、ほめ歌っています。

 さて、今日の福音は、先週の、弟子たちを、ぶどうの木につながっている豊かな実をもたらす枝とよび、主イエスにつながって、豊かな実を生むことによって、父なる神が尊ばれることになるように励もうとの主イエスのなさった告別講話といいましょうか、渡される前の晩になされたという一連の告別説教の続きです。

 そして、今日のみ言葉は「これらのことを語ったのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが完成されるためである」と始まります。迫りくる別れの時を、直感的に感じ取っていたであろう弟子たちに向かって、これらの言葉は、あなた方の悲しみはやがて、喜びに満たされることになるためのものであると、主イエスは告別の言葉を語り続けます。
 
「私があなた方を愛したように、あなた方もお互いに愛しなさい、これが私の命令である」と、ここではそれまで複数形であった命令が単数形に変わっています。
そして、だれも、その命をその友どものために、置く以上に大きな愛を持たないと言われ、私はあなた方をもはや、僕とは言わない、あなた方が、私の命令を守るなら、私の友どもであると言われます。
 
私は、思春期頃から、孤独をよく覚えました。しかし、今日、これらの言葉を語られている主イエスに、思わぬ形で出会い、洗礼を受けて、今日に至っています。それからはもはや、以前のような孤独に悩まされるということはなくなりました。
あなた方が、共に愛し合うならば、私の友だとまで、主イエスは私たちを、呼んでくださいます。なぜなら、しもべは、その主人のすることが分からないが、私はあなた方に、父から聞いたすべてのことを、知らせたからであると言われます。その意味で、もはや、私たちは、家の中の奴隷ではなく、むしろ、家を継ぐ息子であって、自由で開かれた者の地位、友という特権を与えられているのであります。
 
しかし、私どもは、ある一面では、依然として、パウロやペトロが自称しているように、主イエスの僕、あるいは、主に仕える奴隷でもありますが、それはもはや私たちの真価を損なうものではありません。パウロも、多くの弟子たちも、主のご復活以後も、主の僕であることを恥じるどころか、むしろ主のご用に用いられることを誇りにしているのであります。
 
けれども、他方ここでは、主は、私たちが、主につながり、互いに愛するならば、あなた方は私の友であると宣言なさるのです。
確かに、私たちの方から、主イエスを選んだのではなく、イエスが私たちを、弟子として選ばれたのですが、この後に起こる十字架の死と復活をも含めて、すべて父から聞いたことをあなた方に知らせたのだから、私の命令を守るならば、私の友であると約束なさいます。

これは、アブラハムやモーセに対して、主なる神が例外的に呼ばれた名称と同じであります。信仰の父と旧約聖書でたたえられている、そしてすべての人類の祝福の基となるアブラハムと同じ位置が私たちに与えられるとまで、主は言われるかのようです。あるいは、律法を投与したあのモーセに劣らない立場に、あなた方は立つとまで、主は言われるかのようであります。それは、主ご自身が十字架の死を通して、私たちのために、命を差し出される、あるいは、それを置いて、与えて下さることによって初めて起こる出来事なのであります。
 
ところで、先日は、今年になって、年の始めに、初めて教会に初めて来られた大学生の人の親御さんから電話があり、週報等を今後は送らないでほしいとの伝言があったとのエピソードがありました。
それは、ささいな出来事のようではありますけれども、不思議にも、この世界は、ヨハネ福音書が説くように、世の光として来られた主イエスを拒む一面があるのであります。その独り子を与えるほどに、父なる神はこの世界を愛されましたが、逆にこの世界は、それを受け入れず、喜ばなかったのであります。

しかし、この世界を救うために、父なる神のご意志は、十字架にみ子をつけ、死んでよみがえらすという、いわば曲線の方法を取られます。直線で、まっすぐに救いが私たちのところに来てもなかなか人間は、容易に救いを受け入れられないからであります。

そのような中にあって、主イエスは自分の弟子たちを、この世から選び出し、あなた方は、私の戒めを守るならば、「私の友」であるとまで言われます。そして、その戒めとは、御自分が、弟子たちを愛されたように、弟子たちが、互いに愛し合うことに尽きると言われるのであります。

「友」という聖書では例外的な言葉を、主イエスはここでお用いになりますが、それは、「愛する者たち」とほぼ同じ意味であります。
ヨハネ福音書は、当時のギリシャ世界、ヘレニズムの中で、グノーシス主義などに影響されているのではないかとも言われますが、主イエスがあくまで弟子たちをお選びになるのであり、グノーシス主義のように、弟子たちが、師を選び取ったり、自ら入会式をするというのではありません。

あくまで、主イエスが弟子たちを、選び出し、そして、私たちが出て行って、豊かな実を結び、その実がとどまるようにと主導権を持って任命する、すなわち、主イエスが先に立って、私たちをそこへと置き、実を結ぶように与えるというのであります。

それは、この後の使徒たちの世界宣教へ向けて按手されたという意味にも、読みとれますが、それよりもむしろ、私たち、弟子たち同士の間で、相愛し合うという神的な一体となった生活そのものへと、主は私たちを「置かれた」のであります。

主は、この講話を、私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝であり、枝は木につながっていなければ豊かな実をもたらすことはできないという譬えで語り始められましたが、今日の終わりの部分も、あなた方が出て行って、豊かな実を結び、その実がとどまるようにと、あなた方を置くのであると言われます。

そして、あなた方は、私の名において、父に何でも要求しなさい、それを、父は与えて下さるであろうと私たちに、言わば祈りの特権を約束しておられます。そして、「これらのことを、私はあなた方に命じる、すなわち、お互いに愛し合いなさい」と重ねて弟子の間での兄弟愛を、まずは、教会内で愛し合うことを求めておられます。

それは、あなた方の敵を赦し、迫害する者のために祈りなさいという、別の個所での主イエスのみ言葉と矛盾するものではありません。ヨハネ福音書記者は、キリスト教の愛を教会内の愛に狭めてしまったというのではありません。

しかし、この世界が、この世界に来た光であるみ子を拒む中にあって、あなた方相互の間で愛し合い、実を結び、その実がとどまることによって、あなた方が、私の弟子であることを、この世界が知るようになるためであると、主は、御自分の友と呼んだ者たちに、重ねて言い残されるのであります。

昔から、今日の主イエスのみ言葉を深く受け止めて、自分の命をその愛する者たち、あるいは同胞のために犠牲にした逸話も伝えられてきました。たとえば、三浦綾子の小説「塩狩峠」では、その主人公が命を捨てて、逆行し始めた汽車をとどめ、乗客の命を救った実話が伝えられています。

また、同じ作家のデビュウ作「氷点」も、青函連絡船が遭難した時に、自分の命を犠牲にして、数名の命を救った宣教師の実話を伝えています。

さらに、「イエスの友」という団体が今も存続しています。あの関東大震災の時に、神戸から上京して救援活動にあった社会事業家でもあった賀川豊彦牧師を助けた弟子たちの群れが、「イエスの友会」として、今も音楽伝道を続けたりして活動しています。

その名称の典拠となっているのも、今日のヨハネ福音書15章14節の「あなた方は、私があなた方に命じることどもを行うならば、私の友である」であります。
その精神は、この聖書個所から、与えられており、教会に下座奉仕をすることを、モットーとし、以下の5綱領を掲げています。
すなわち、敬虔、平和、純潔、奉仕、労働という5綱領を重んじるという精神を出発点とし、今もそれを基盤として活動を続けているのであります。
しかし、私たちは、特にこのような団体に加わらなくても、主イエスの命じられる、愛し合う兄弟愛の生活をしていくならば、皆「イエスの友」と言えるのであります。

この復活節の時に、今日のぶどうの木のたとえとそれに続く、主イエスが御自分の命を差し出して、私たちの罪と死と闇から救い出して、永遠の命に生きる者としてくださり、私たちを、御自分の友と呼んで下さるみ言葉は、私たちが、闇と死から命へ、平安へと招き、共に、助け合い愛し合うという豊かな実を分かち合い、そして、同じ主の食卓、聖餐に連なるという、復活のメッセージに相応しいみ言葉であります。

私たちは、まことのぶどうの木である主イエスのみ言葉を離れては、何一つまことの実を結ぶことはできない弱い者であることを知っています。けれども、それにつながっていくならば、父なる神に何でも願い求めなさい、それを、父は与えられると主は約束なさいます。この復活節の良き時、すべてが新しくなるこの時に、主のみ言葉と共に、もう一度新しくやり直し、ここから出発しようではありませんか。アーメン。

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