津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の十字架の死とご復活」(ヨハネ3:13-31)
ヨハネ福音書3章13節-21節、2015年3月15日、四旬節第4主日礼拝(典礼色―紫―)、民数記21章4節-9節、エフェソの信徒への手紙2章4節-10節、讃美唱34/1(詩編34編2節-9節)

ヨハネによる福音書3章13節-21節
 
 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」 




説教「主の十字架とご復活」(ヨハネ3:13-21)

 主イエスの十字架上での死と、死者の中からのご復活を覚えるレントの中にあって、今日の福音は、先週に引き続き、ヨハネ福音書から与えられています。
 ファリサイ派の教師、ニコデモとの、主イエスの対話から、今日の福音記事は始まっていますが、いつのまにか、この福音書記者ヨハネ自身の信仰告白のように、すり替わって行きます。
 イエス・キリストは、メシアではないとのファリサイ派の迫害の中で、主イエスこそ、メシアとの信仰から離れないように、書かれたのがこの福音書の動機であります。
 モーセが荒れ野の試練の中で、不満を持つイスラエルの民が、荒れ野での炎の蛇によって噛まれて、命を落とす者が続出する中で、モーセが主なる神から示された青銅の蛇をさおの上に付けて、それを仰ぎ見るならば、たとえ、噛まれた者でも、命が助かった故事のように、人の子も、上げられねばならないと、主イエスは言われます。そして、それはまた、この記事を書いている記者ヨハネの信仰告白でもあります。
 父がその独り子を与えるほどに、この世を愛されました。しかし、そこに、信じない者には裁きがくだされ、救われる者との間に分断が起こるのです。いや、それはすでに起こっていると言います。
 今、キリストと共に復活し、共に生きることになる。しかし、この世は、光を憎むと言われています。
 私は、自らは、清くなることが出来ません。しかし、み言葉によって、私たちは既に清いと、主イエスは言われます。
 闇は光を憎み、この世は、キリストを憎む。マルティン・ルターは、この辺の事情を、創世記講解の中で、信仰の教会と、不信仰な教会、あるいは、神的な教会と、不神的な教会と分けております。
 信仰によって、光の中を歩む教会でありたいものです。アーメン。
 

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2015/03/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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