津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「人の思いと神の思い」(マルコ10:32-45)
マルコ福音書10章32節-45節、2015年3月1日、四旬節第2主日礼拝(典礼色―紫―)、創世記28章10節-22節、ローマの信徒への手紙4章13節-17節a、讃美唱115/2(詩編115編9節-18節)

マルコによる福音書10章32節-45節
 
 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕となりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。




  説教「人の思いと神の思い」(マルコ10:32-45)

 先だっての灰の水曜日から、レントに入りました。灰の礼拝では、会衆列席者の顔の額に、棕櫚の木の葉を焼いて作った灰をオリーブ油でとかしたものを、十字の形でつけて、「人は塵から造られたのだから、塵に帰るべきことを覚えなさい」と司式者が言って、私どもが、死すべき存在であることを確認します。
 そして、主イエスの十字架の死に至る道行きを覚えて、40日間を、私の知っているある牧師は、この期間は、アルコールも絶って過ごします。
 昨日もテレビを見ていましたら、少年が、同じ世代の少年たちによって、命を奪われるという惨たらしい事件が報道されていました。
 また、そのような、まさしく闇の出来事と言えるものではなくても、信仰者のある姉妹が、50歳を過ぎたばかりの若さで、3人の息子さんと御主人を残して、脳溢血で、ある洗礼式の主日の朝に、喜びの愛餐会の準備をしている最中に、地上の命を突如絶たれるという出来事を知らされ、私たちの命の短さをも痛感させられています。
 私たちは、今、受難節に入っていますけれども、その中にありましても、主日は、主イエスのご復活の祝いの日として、レントの期間の中にありましても、福音のみ言葉のもとに、そして、さらに、今日は聖餐礼拝として、私たちの罪のために流された主イエスの血を頂くために、集まっております。
 さて、今日の第1の朗読では、兄エサウのもとから、ハランの地へと逃れているヤコブに、天より、梯子というか、階段ができて、そこを天使たちが昇り降りしている夢を見ます。そして、主は、「また、あなたを、ここに、連れ戻し、この地で豊かな祝福を与える」と約束します。
 ヤコブは、この厳しい今の現実のもとにこそ、主がと身にいて下さることを知ります。私たちもまた、現実の今の自分のいる場所にこそ、主が共にいることを、知らされます。
 さて、今日の福音は、三回目の主イエスの受難予告、そして、ご復活の予告の場面であります。
主は、旅の途上で、初めて、ここでは、エルサレムへ向けて先立ち給います。彼らはそれを見て、驚かされます。そして、従う者たちは恐れたとあります。
 ここでこそ、従わない者たちと、従う者たち、真の弟子たちとが別れたでありましょう。主は、「見よ、我々は、エルサレムへと上って行く」と言われ、御自分が、ユダヤ人たちから拒まれ、異邦人の手に渡され、侮辱され、つばきされ、死の宣告を受けて殺されることになっていると告げます。
 そして、この時も、三日後に起き上がらされると、復活を予告されています。
 ところが、まさにこの時にも、愛弟子のヤコブとヨハネが近づいて来て、何かを願おうとするのです。主イエスが、尋ねられると、二人は、あなたの栄光の時に、その左右に座らせてほしいと願い出たのです。
 主イエスは、「私が飲む杯、私が受ける洗礼を、それぞれ飲み、また、受けられるか」と問うと、二人は、「はい、できます」と答えます。
主は、あなた方は、いずれはそうなることになっているが、自分の左右にだれが座るかは、自分に与えられていることではないと言われます。
 そして、異邦人においては、長である者が圧政を強いているが、あなた方においてはそうではないと言われ、あなた方の中で大きくなりたい者は、仕える人、僕になりなさいと教えられます。
イザヤ書53書の、主の僕こそ、私があなた方に命を与える姿であると、言われます。しかしながら、今日の二人にも見られるとおり、私たちは間違いを犯しながらも、主イエスの後に従って行く一人一人であります。アーメン。
 

スポンサーサイト
2015/03/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。