津田沼教会 牧師のメッセージ
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「光に来るか、闇にとどまるか」(ヨハネ12:36b-50)
ヨハネ福音書12章36b節-50節、2015年3月22日、四旬節第5主日礼拝(典礼色―紫―)、エレミヤ書31章31節-34節、エフェソの信徒への手紙3章14節-21節、讃美唱51/2(詩編51編15節-21節)

ヨハネによる福音書12章36b節-50節
 
 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。
 主の御腕は、だれに示されましたか。」
 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
 「神は彼らの目を見えなくし、
 その心をかたくなにされた。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 心で悟らず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」
 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公には言い表わさなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしに言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」




説教「光に来るか、闇にとどまるか」(ヨハネ12:36b-50)
  
 レントも、残すところ、2週間となりました。第1の朗読エレミヤ書31章31節から34節は、私、主なる神は、あなた方、イスラエルの民に、新しい契約を与えるというものです。バビロン捕囚から帰ってくる民に、もはや石や書物に書きつけるのではなくて、その心に律法を記し、もはや、あなた方は互いに、主なる神を知れと言い合うことはなくなると言われます。
 主は民の罪を赦し、「あなた方は私の民となり、私はあなた方の神となる」と約束され、
言わば、新約聖書の時代が来ることを預言していると言えます。
 第2の朗読のエフェソ書では、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知って、信仰によって、父があなた方の心のうちに、キリストを住まわせ、愛にしっかり立つ者として下さいますようにと励ましています。
 さらに、讃美唱の詩編51編では、レントの時期にふさわしく、主の喜ばれるいけにえとは、悔いた心、砕かれた霊をみ前にささげることですと、詩人は歌っています。
 さて、今日の福音は、このところ、与えられてきたヨハネ福音書からの3回目の日課で、ヨハネ12章36b節から50節が選ばれています。
 今日の説教題を、「光に来るか、闇にとどまるか」と付けておきました。先週の火曜日には、2年ぶりくらいで、高校の同窓会に行って来ました。この関東地域、首都圏には、高校時代、同学年だった320人ほどのうち、30人くらいが住んでいるようです。
 先日の同窓会には10数名が、週日の夜に新宿駅近くの店に集まり、5時半から8時半まで、旧交を温める楽しいひと時を過ごして来ました。
 高校の同学年であった320人くらいのうちで、牧師となっているのは、どうやら、私一人のようで、珍しいこともあって、旧友たちは、私に一目置いてくれています。
 そこで、良く質問されるのは、当然ながら、なぜ、牧師の道を選んだかということであります。もう、同学年のほとんどは、60歳になっており、還暦を迎えています。もう定年で仕事を辞めている男子もいます。共通の話題は、高齢になっている親の介護の問題です。
 どうして、牧師になったのかという疑問に対しては、いろいろと辛いこともあってとか、十分に答え切ることはことは難しいです。
 大学生になったばかりのことだと憶えていますが、トルストイの比較的短い小説に「光あるうち、光の中を歩め」という本を店頭で見つけ、当時一緒にアパート暮らしをしていた兄と一緒に読んだ記憶があります。
 それは、多分、今日のヨハネ福音書の記事の直前にある主イエスの言葉から来ています。ローマ帝国下での原始キリスト教の時代に、主人公の青年が、キリスト教会に入っている友人たちと触れ合いながらも、そして、自分も入信しようと思いながらも、その都度、地あある老人などが現れて、「若いの、今は、やめときなさい、急ぎなさるな」などと言って忠告されて、兄弟愛に内に生活している信者たちの群れに入れず、いつしか時が流れて、ついに死に際になって、このみ言葉、「光あるうち、光の中を歩め」というイエスの言葉を思い起こしながら、死を迎えるという物語でした。
 さて、今日のこのヨハネ福音書12章16bから50節は、イエスの公生涯の厳密な意味での結論部分に当たっているテキストであります。
 主イエスはそこから、立ち去って、御自身を隠されたと、今日の日課は始まっています。光あるうちに、闇に追いつかれないように、光と共に歩めと言われた後に、エルサレムの人々から隠されて、多分、ベタニアの村に退かれたのでしょう。
 今日のテキスト、ペリコペーの部分は、新共同訳聖書では、二つに分けられています。ある人は、この順序を逆にして読んだ方が理解できるとも言います。
 そうすると、こうなります。主イエスは大声で叫ばれ、こう言ったと始まります。「私へと信じゆだねる者は、私を送られた方、父へと信じゆだねるのである。私を見ている者は、私を送って下さった方を見ているのである。」
 主イエスは、私は自分から話しているのではなく、父が言われるとおりに語っているのである。そして、私は、光として、この世界にやって来たが、それは、あなた方がもはや、闇の中にとどまらないようになるためであると、言われます。
 私たちの生きているこの世界は、闇であり、この世の君、サタンが支配している世界だと、主イエスは言われます。また、全聖書も、そのように証言しているとも言えます。
 そこに、主イエス、神の独り子がお出でになって、光と闇とに分かれることになる。
しかし、私たち、洗礼を受けている者も、完全に光になりきっている訳ではなく光と闇の間を揺れ動いているような、弱く脆い存在です。
 しかし、私どもは、主イエスのみ言葉によって、既に清くされているのであり、主イエス・キリストの十字架の苦しみとその後のご復活による勝利に与っている者であります。
 そして、主イエスのみ言葉を運ぶ者とされている。主イエスは、私は、あなた方を救うために来たのであり、裁くためではない。裁くものは、別にある。私の語った言葉が終わりの日にその人を裁くと言われ、また、すべての人は、終わりに、正しい行いをした人は救いへと、永遠の命へと復活し、そうでない人は滅びへと、裁きへと復活すると言われます。
 これ、すなわち、裁きと救いは、両方とも起こるのであります。主イエスのみ言葉によって、弱い私たちは救いへと、又、同時に、裁きへと招かれている。しかし、私たちは、主イエスのみ言葉につながって、多くの人々を光へ、命へと指し示し、招き入れる働きへと導かれている。
 そして、主イエスはこう言われるのです。「私は、父の命令は、永遠の命であることを知っている。父から遣わされた主イエスは、父である神を知っていると言われ、その命令とは永遠の命であることを知っていると言われます。
 ルカ福音書では、若い青年がやって来て、「先生、永遠の命を得るにはどうしたらいいのでしょうか」と尋ねますが、主イエスはそれに対して、十戒を守るようにと言われます。
 神を知り、神だけを神とし、隣人を愛していくことが、永遠の命につながるのでありあす。
 さて、残りの前半の文章へと、逆にして考えると、福音書記者ヨハネは、多くの当時のユダヤ人たちが、また、彼の時代のユダヤ人たちが、主イエスを信じゆだねることができなかったのは、神のご計画によるのであり、預言の言葉がそれによって実現していると言います。
 主イエスは多くのしるしを行ったが、大方のユダヤ人たちは信じなかったと言います。主よ、だれが、私たちの報告、聞いたことを、信じましたか、主の御腕は、だれに啓示されましたかと、イザヤ書の主の僕の預言を持ち出し、彼らが信じなかったのは、次の預言の言葉が成就するためだと言って、引用します。
 彼らは見るには見るが、見えなくされ、その心は、かたくなにされ、暗くされ、彼らはたち帰ることがなく、私は彼らをいやさないというイザヤ書の預言が実現したと言います。
 にもかかわらず、ユダヤ人の当局者たちの内にも、ニコデモや、アリマタヤのヨセフや、あるいは、あの金持ちの青年もそうだったかもしれないが、主イエスへと信じゆだねた者も多かったのであります。
 しかし、あのファリサイ派たちの故に、シナゴーグから追放されることを恐れて、信仰告白するに至らなかったと、ヨハネは記し、なぜかというに、彼らは、神からの誉れよりもはるかに、人からの誉れを愛し、好んだからだと言うのです。
 旧約聖書で預言者が預言している通りに、大勢の者たちは、信仰告白するには至らなかったと、記者ヨハネは、主イエスの公生涯の終りに要約しているのです。
 現代の私たちはどうでしょうか。自分の罪や弱さの故に、光へと、死と闇から命へと、人々を導くことが出来なくなっているのでしょうか。このレントの終わり近い時、イエスこそ、闇の中に来た光、死ではなく、闇ではなく、永遠の言葉を持っているのはあなたですと信仰告白したペトロや弟子たちに従って、この世の霊に立ち向かい、救いのみ言葉を人々に取り次ぐものとされたいものです。アーメン。


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2015/03/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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