津田沼教会 牧師のメッセージ
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「み旨に従うキリスト」(マルコ11:1-11)
マルコ福音書11章1節-11節、2015年3月29日、枝の主日礼拝(典礼色―紫―)、ゼカリヤ書9章9節-10節、フィリピの信徒への手紙2章6節-11節、讃美唱92(詩編92編2節-10節)

マルコによる福音書11章1節-11節
 
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスは得るされ身に着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説教「み旨に従うキリスト」(マルコ11:1-11)

いよいよ今日から受難週に入ります。長く、途中で倒れ、躓くこともあったレントの時期も、残すところ1週間となりました。今日の第1朗読は、ゼカリヤ書でも、最も有名な個所であり、主イエスもそれをご存じで、今日のエルサレム入城を果たされたと思います。  
第2朗読は、キリスト讃歌であり、毎週、レントの間の礼拝で歌って来たものであり、キリストがみ旨に、十字架の死に至るまで従われたので、すべてのもの、被造物は、神をあがめ、跪くようになると、使徒は語っています。
讃美唱、詩編92編も、主のみ業をほめたたえ、感謝すると歌い、不義なる者は、裁かれると信仰を言い表わしています。さて、今日の福音は、マルコによる主イエスのエルサレム入城の場面です。もう30年近くも前、初めて、海外旅行に出、出エジプトの旅と題して、ちょうど今頃、エジプトから、聖地イスラエルにはいり、最後に迎えたエルサレムでの数日のこと、自由行動の日に一人でオリーブ山を上って行ったことを、思い出します。主イエスがくだられたオリーブ山の経路とは、言えないでしょうが、今日の出来事を思い起こしながら、エルサレムの町から上っていったのでした。さて、今日の福音書の記事は、そのオリーブ山のふもとに、近づかれ、エルサレム、ベトファゲ、ベタニアへと一行がやって来たところから始まります。主は二人の弟子を遣わして、言います。ペトロとヨハネであったでしょうか。向こうの村に行きなさい。そこに入るとすぐに、まだだれものったことのない子ろばがつながれているのに出くわすだろう。それをほどいて連れて来なさい。だれかが、何でそんなことをするかと言えば、それの主が必要を持っていると言いなさいと。神聖なものが、メシア、キリストのご用のために、用いられます。このあと、受難週に、十字架につけられ、アリマタヤのヨセフによって主イエスのご遺体が納められる墓も、だれも入ったことのない新しい墓です。神聖なご用をするために用いられる子ろばであり、私たちも、そのろばと同じく用いられる一人一人です。もし、だれかが何でそんなことをするのかと聞いたら、その主がお入り用なのです。彼はすぐ、また、ここに返されます、遣わしますと言いなさいと言って送り出します。これは、子ろばの主人が主イエスのそばにいて、その了解のもとに送り出したのかもしれません。あるいは、父なる神がお求めであると言われたのかもしれません。あるいは、やはり、主イエスが、メシアとして、ここで初めて、自らを主と呼んで遣わされたのかもしれません。いろいろな読み方ができるのが、聖書であり、福音書であり、主イエスのお言葉であるとも言えます。
そして、事柄が主イエスの言われたとおりに運びます。二人は、子ろばを連れて、主イエスのもとに帰って来ます。そして、子ろばの上に、自分たちの外套をしくと、主イエスは、それにお乗りになる。そして、大勢も、服を広げて道に敷き、別のものたちは、野から葉の付いた枝、草やいぐさのようなものを、切って来て、主イエスの進まれる前に敷いて行きます。これは、主イエスが王であることを示しています。そして、前を行く者も、あとに従う者も、詩編118編のあの言葉を交唱して、行きます。
「ホサナ!」、これは、今、救って下さいの意であり、主のみ名によって来る者は祝福されている。我らの父ダビデの来たりつつある王国は祝福されていると、歌い、さらに、いと高きところで、ホサナと歌って行きます。昔、ユダ・マカバイが神殿と祭壇を奪回して清めてから、喝采のうちに、エルサレムに入城したように、主イエスも、今度は子ろばに乗って、入城し、その後には、宮清めもされることになります。しかし、ここでは、エルサレム当局の動きも、ローマ人たちが目を光らせることもなく、エルサレム巡礼の一行として、むしろ、地味に、控え目に、主イエスはふるまい、また、一言も自らは語っていません。
巡礼の者たちが、神殿についての詩編118編を使って、歌い、交唱して、主イエスがメシアであることを、期せずして言い表わしているだけです。ホサナ、これは、今救ってください、その人々はやりとりし、主のみ名によって来られる方、メシアを知らずして、助けて下さいと、唱え、打ち砕かれた信仰の人ダビデ、我らの父ダビデの来たりつつある国を、そして、まことの神の国が来ることを、同行の人々は、期せずして、願い求め、歌っていました。
マルコには、ゼカリヤ書9:9の引用こそこそありませんが、主イエスは、喜び迎えるエルサレムを、イメージし、同行する人々の歓呼する中を、子ろばに乗ってお出でになる、柔和な王であり、平和をもたらす王であることを、控え目に示しておられるのであります。  
ところが、エルサレム神殿の境内に到着してみたところは、どうであったでしょうか。そこに祭司長たちの歓迎や喜びの叫びは一切なく、主イエスは、境内のすべてのものを、見回したあげく、時が既に遅くなったので、12人と共に、ベタニアへと立ち去られるのであります。
それは、受難週の出来事の不吉な始まりを意味しています。私たちの罪のために、十字架の死が既に目前に控えていることを、主イエスは、その目で確かめて、神殿の境内から、一旦、退かれるのであります。そして、ここから始まる1週間の出来事は、主イエスの受難と苦しみの出来事でありますが、それを、乗り越えられて、父なる神のみ旨に従われる1週間となるのであります。
私たちもまた、このキリストの必要とされる子ろばとして、あるいは、自らを装う服を脱いで、主に向かって差し出し、キリストのしもべとされる歩みを、ここから、共にしていきましょう。アーメン。
 











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2015/03/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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