津田沼教会 牧師のメッセージ
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「父なる神が尊ばれることになる」(ヨハネ15:1-10)
ヨハネ福音書15章1節-10節、2015年5月3日、復活後第4主日聖餐礼拝(典礼色―白―)、使徒言行録8章26節-40節、ヨハネの手紙一3章18節-24節、讃美唱22/2(詩編22編24節-32節)

ヨハネによる福音書15章1節-10節
 
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。






説教「父なる神が尊ばれることになる」(ヨハネ15:1-10)

復活節も終盤に入っていますが、先週までのヨハネ福音書の主のご復活の記事から、遡りまして、今日から、十字架にお付きになる前の、告別説教の記事が、復活節のペリコペーとして挙げられています。今日の日課から見ていきましょう。
第1の朗読の使徒書は、使徒言行録のフィリポが、エチオピアの宦官に洗礼を授けたという出来事であります。フィリポは、天使と聖霊によって導かれて、イザヤ書の主の僕の記事を朗読していた宦官にその意味が分かりますかと尋ねますと、宦官は導き、説き明かししてくれる人がいなければどうして理解できましょうと言うので、フィリプは馬車に同乗して、それは、キリストの十字架のことを預言しているのだと教え、水のあるところに来て、洗礼を申し出た宦官に洗礼を施すとやがて、見えなくなったが、喜びに満たされて宦官は帰って行ったというのです。
先週の使徒言行録にもありましたように、一つ心となって、一つの主の食卓にあずかれる様になったのであり、異邦人伝道の初穂であると言えましょう。
第2の日課のヨハネの手紙一は、子たちよ、口先だけでなく、行いを持って、互いに愛し合おうとあり、主のご復活はそのことをもたらすことを意味しています。
末の日に安心して、神の御前に立つことが出来るように、神のうちにいつもとどまりましょうと、記者は奨めています。
讃美唱は詩編22編24節から以降で、22編1節は「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか」との、十字架上で主イエスが祈った言葉から始まりますが、24節以降では、イスラエルも異邦人たちも、また、既に死んだ人々も、後に生まれる人々も、主の恵みの業を、民の末に告げ知らせるでしょうと、主の十字架上の絶望の祈りから、神に信頼し、賛美する者たちに、私たちが変えられていることを教えています。
さて、今日の福音は、有名な、私はまことのぶどうの木、父は農夫、あなたがたは枝であるとの譬えであります。ぶどうの木は、これを聞いているユダヤ人たちにとって、出エジプト以来、自分たちのことを指す譬えとして、なじみ深いものでありました。
よい実のなる枝は、ぶどう園の剪定人である神が、さらによく実りをもたらすべく、剪定するのであり、実をもたらさない枝は、神が刈り取られ、外へ投げ捨てられ、枯れて燃やされることになる。
あなたがたは、既に私の語った言葉によって、清いものであるが、より豊かな実をもたらすために、私にしっかりとつながっていなさいというのです。これは、主イエスのみ言葉と命令、すなわち、互いに愛し合うということであります。復活の主と共に歩むということは、そのみ言葉と共に歩み、そこから離れないということであります。
しかし、私たちは信仰が弱く、しばしば、主イエスの教えから離れるのであります。ヨハネ福音書は、ファリサイ派などの迫害が激しい中で、まことの光、神の子であり、神である主イエスの救いから離れないようにと、励ますために書かれた、最後の福音書であります。
主から離れず、その命令である互いに愛し合うことを、告別説教において、言わば最後の掟として主イエスは命じておられます。あなた方が私の内にあり、あなた方のうちに私がいれば、何でも願い求めなさい、それは聞かれるであろう。
そして、そのことによって、私の父が栄光を受ける、すなわち、この世にあっても尊ばれることになると言われます。マタイ福音書では、山の上にある町は隠されていることができない、あなた方の光を人々の前で輝かしなさい、それは天の父があがめられるためであるとあります。キリストのみ言葉から、離れないために、どうすればいいのでしょうか。
それは、たとえば、今の私にとっては、ルターの聖書講解を、英訳のものですが、それを、なるべく毎日、一日の始めに一時間ほど読むことであります。創世記の第2巻目を、アブラハムの召命の辺りを、目下読んでおります。
皆さまにとっても、それぞれ、主イエスのみ言葉から離れない工夫をされるとよいと思います。そして、それは、お互いに愛し合うという命令を守ることであり、それによって、主イエスを送られた父なる神が栄光を受ける、すなわち、尊ばれることになると、この復活節において、主はお語りになっておられるのであります。アーメン。

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2015/05/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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