津田沼教会 牧師のメッセージ
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「まことの光が世に来た」(ヨハネ21:1-14)内海望牧師
ヨハネ福音書21章1節-14節、2015年4月19日、復活後第2主日聖餐礼拝(典礼色―白―)、使徒言行録4章5節-12節、ヨハネの手紙一1章1節-2章2節、讃美唱139(詩編139編1節-10節)

ヨハネによる福音書21章1節-14節
 
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現わされた。その次題はこうである。シモン・ペトロ、ディドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らはありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは、「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。いえすは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンをとって弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。


説教「まことの世界が世に来た」(ヨハネ21:1-14)内海望牧師

 今日の福音書の日課は、復活物語の中でも抜きん出て印象深い箇所です。一幅の絵になるような美しい箇所です。
 教会はイースターの喜びの中にありますが、聖書日課は未だ受難の痛みが響いています。今日の福音書の日課であるヨハネ21章3節で、ペトロが「私は漁に行く。」と呟いた時、その一言には万感の思いが込められています。彼は完全に望みを失っていました。ペトロは、「イエスさまこそ本当の救い主だ。」と信じていました。「いろいろな『救い主』が出てきたが、今度こそ本物に出会った!」という思いがあったのです。だからこそ、一旦は逃げましたが、思い直して大祭司の中庭にまで、イエスさまについて行ったのです。しかし、何の奇跡も起こらず、イエスさまは無残に、人々に罵られ鞭打たれつつ、十字架につけられ、殺されてしまったのです。期待が多かっただけに、「今度も駄目だったのか。」という絶望はまことに深かったのです。
 更に、ペトロをより深い絶望に追いやったのは、自分自身の罪深さでした。大祭司の庭にまでついて行きながら、いざ自分の身に危険が及ぶと感じると、「主よ。」と呼びかけている方まで裏切ってしまった、という罪深さです。罪の深淵をみたのです。そこで、彼は、すべてを諦めて、元の生活に戻ろうとしていたのです。
 改めて振り返ってみましょう。イエスさまの苦難と死。そこで何が起こったのでしょうか。そこには、自分の身を守るためには、師(先生)でも、親友でも裏切ってしまう人間の姿があります。また、ユダのように妬みが心に渦巻いた時、後先考えずに主を売ってしまう人間の姿がありました。ユダの心の痛み、悲しみは想像を絶します。犯してしまった取り返しのつかない罪の重荷は、私たちも経験する人間共通の痛みです。
 イエスさまにとってはどうだったのでしょう。「この杯を私から過ぎ去らせて下さい。」と血の汗を流しながらゲッセマネの園でひとり祈るイエスさま。これに反し、「一緒に祈ってくれ」というイエスさまの願いをよそに眠り込んでしまう弟子たちの姿。イエスさまが捕らえられるや、雲の子を散らすように逃げてしまった弟子たちの姿があります。今まで寝食を共にしてきた弟子たちの裏切りほど心痛む出来事はないでしょう。しかし、これが人間です。更に、鞭打たれ、唾され、いばらの冠をかぶせられ、長い時間、十字架上で苦しまれたのがイエスさまです。苦しい息の下から、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てに成ったのでしょうか。」とひとり絶望の中で祈り続けるイエスさまの姿があります。人間が経験する最も痛ましい姿と言えましょう。
 これは、ペトロやユダ、そして逃げてしまった弟子たちの物語ではありあせん。そこには、人間のありのままの姿が現れているのです。妬み、裏切り、自己保身、卑劣、怯だ(臆病、いくじなし)等々、あるとあらゆる人間の罪深い現実があるのです。それは私の姿でもあるのです。竹田泰淳が「私の中の地獄」と語った恐ろしい私自身の姿があるのです。ユダやペトロの問題に矮小化してはなりません。「それは私の問題だ!」と胸打つほかありません。
 また、私たち人間が経験したことで、イエスさまが経験なさらなかったことは一つもありません。これは、非常に重要な点です。イエスさまは、「あなたがたを孤児にしない。」と約束して下さいました。それは、イエスさまは、「私は、あなたがたすべての最もつらい苦しみを共に苦しむ。あなたがたを決して孤独にしない。」という約束なのです。それは、口先だけの同情ではなく、同じ痛みをとことん苦しまれた方の約束なのです。
 ヘブライ4章15節、5章2節に示されているように、イエスさまは私たちが経験するすべてを「思いやる」ことが出来る方なのです。405頁。今日改めてこのイエスさまの約束を信じましょう。その時、私たちは必ず慰めを与えられます。

 福音書に戻ります。ペトロと弟子たちは、重苦しい心で漁に出ました。しかし、「その夜は何もとれなかった」と書かれています。無駄働きに終わったのです。皆、心身共に疲れ果てて岸に向かって舟をこいでいたのです。
 4節。その時、岸辺に、朝の光の輝きの中にイエスさまが立っておられる姿が見えたのです。何と美しい情景でしょう。夜明けの空を金色の輝きで覆う朝日の光を浴びて岸辺に立つイエスさま。絶望に沈む世界に光が射し込んで来たのです。茫然とする弟子たちでしたが、イエスさまの「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」という一言で何が起こったか悟りました。かつて(ルカ5章)、自分たちが夜通し苦労しても何もとれなかった時、イエスさまの「網を下ろし漁をしなさい。」とおっしゃった時に起こった出来事を思い出したのです。イエスさまの愛していた弟子の「主だ。」という言葉に呼応してペトロは上着をまとって湖に飛び込みました。「主だ。」という言葉が二度繰り返されている点に、弟子たちの衝撃の深さが示されています。
 「主イエスは生きておられる!!」という喜びがペトロを海に飛び込ませました。実は、イースターの喜びは、この「私たちを思いやることが出来るイエスさまが、今も共にいて下さる」という喜びなのです。
 更に、13節には、「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。」と書かれています。最初の聖餐式の場面です。この時、弟子たちは、イエスさまが罪と死に勝利された方で、私たちのすべての罪を赦し、新しい命を与えて下さったことを経験したのです。この時、弟子たちは、新しい命に生きる喜びに満たされました。
 何と多くの人々が、この岸辺に立つ光の中のイエスさまの姿に、新しく生きる喜びを得たことでしょうか。夥しい数の証言があります。まことの光が世に来たのです。私たちもこの復活のイエスさまの光に包まれて生きているのです。私たちも、この聖書の場面を心に描き出す時、確かに新しく生きる力が与えられます。
 今日の第二の日課にあるヨハネの手紙一1:7には「私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」とあります。暗闇の中を生きている時は交わりがありません。孤独です。闇の中では互いに顔を合わせることが出来ないからです。しかし、今、岸辺に立つイエスさまの光の中で、共に罪赦された罪人として人々は一つにされたのです。153匹もの多種多様な魚が飛び跳ねても破れない交わりが生まれたのです。ヨハネによる福音書によるペンテコステ、教会誕生の瞬間です。
 「罪赦された罪人」と申しました。イエスさまの光の中で、私たち人間は罪人同士であることがはっきり見えました。ユダであり、ペトロである私たち自身の姿として。しかし、復活のイエスさまの光は、私たちを弾劾する光でなく、あらゆる罪を清める光であったのです!復活のイエスさまの光は、罪と死に対する勝利の光でもあったのです。パウロは、「罪が増したところでは、恵みはなおいっそう満ち溢れます。」(ローマ5章20節)と喜びの声を挙げています。更に、ヨハネは、「この方こそ、わ(2章2節)。私たちの目にどんな姿にみえようとも、全世界は確かに復活のイエスさまの愛による勝利の光の中にあるというのです。
 このことを信じて、決して望みを失わずみ言葉を伝え続けているのがイエス・キリストの教会なのです。
 第一の日課に目を向けてみましょう。そこには新しく生まれ変わったペトロの姿があります、あのおどおどと「イエスさまなんか知らない。」と逃げ出したいくじなしのペトロでなく、議員、長老、律法学者など権力者がきら星のように居並ぶ真ん中で、大祭司にい向かって堂々と「イエスさまこそ唯一の救い主である。」と証するペトロの姿があります。このペトロは決して私たち普通の人間とは違った偉大な人物ではありません。13節には、「ペトロ、ヨハネが無学な普通の人(ただの人)であるのを知って人々は驚いた」と書かれています。
 私たちは決して類まれな立派な信仰者ではありません。「ただの人」です。しかし、イエスさまは私たちを用いてまことの光の到来をすべての人々に伝えようとされているのです。まことに光栄な、喜ばしい使命ではありませんか。共に、イエスさまに当てにされている群れとして、光を伝える足になりましょう。



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2015/04/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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