津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死を打ち破られたキリスト」(マルコ16:1-8)
マルコ福音書16章1節-8節、2015年4月5日、復活祭聖餐礼拝(典礼色―白―)、イザヤ書25章6節-9節、コリントの信徒への手紙15章21節-28節、讃美唱118/1(詩編118編14節-24節)

マルコによる福音書16章1節-8節
 
 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


説教「死を打ち破られたキリスト」(マルコ16:1-8)(30分)

 今日は、復活祭の朝を迎えています。主イエスが復活なさった、あるいは、父なる御神によって復活させられた、死人の中から、起き上がらされたことを祝う礼拝であります。そして、礼拝という言葉は、ドイツ語では、ゴッテス・ディーンストと言いまして、神が奉仕してくださるという意味であります。また、ローマ・カトリック教会では、ミサといいますが、これは、聖餐式を表わしていまして、そのもとになっている新約聖書のギリシャ語では、聖餐式のことを、感謝(ユーカリスト)と呼んでいます。
 今日、私たちは、ここに集まっていますのは、神のサービスを受け、み言葉を聞くと共に、主イエスの流された十字架の死における血と、復活のからだを現わしますパンとぶどう酒を受けるためであります。
 去る4月3日の金曜日には、受苦日の礼拝が、守られましたが、そのとき、ある姉妹が、新聞記事を持って来ましたが、ある専門家の調べたところによると、主イエスが十字架にかかったのは、紀元30年の4月3日であると言います。そうしますと、2000年ほど前のちょうど今日の朝早く、主イエスは、あの墓から、復活の体をもって、よみがえられたことになります。ほぼ日本と同じような季節でありまして、あちらの地では、荒れ野に近いところでも、広がります石地の間にも、健気に、アネモネの花がうっすらと咲いている時期であります。この喜びの朝、与えられているみ言葉に聞いて行きましょう。
 まず、第1朗読のイザヤ書では、罪によって、異国に捕囚となっていましたイスラエルの民が、赦され、主なる神が、祝宴をもうけて、その民の涙をぬぐい、顔おおいをとって、ひいては、すべての国をおおっていた布を滅ぼし、永久に死を滅ぼして下さると預言しています。
 第2の朗読では、使徒パウロが、一人の人アダムによって、死がこの世界にはいり込んで来たように、一人の人キリストによって、死が滅ぼされることになる、死者の復活も、一人の人によって来ると宣言しています。
今日の讃美唱は、118編14-24ですが、これは、先週の枝の主日で、エルサレム入城の時、巡礼の群衆が、ホサナ、主のみ名によって来られる方は祝福されるようにと歌ったそのすぐ前の部分で、ハレルヤ詩編の一節であり、家造りらの捨てた石が隅の親石になったというおなじみのみ言葉を含んでおり、当時は、捨てられた民イスラエルが、隅の親石になるというふうに解釈されていましたが、私たち、キリスト者にとっては、それは、主イエスのことと信じるのであります。
 さて、今日の福音は、マルコ福音書の終わりの部分であります。主イエスのご復活の記事でありますが、復活した主イエス自身は登場しません。このあとに、括弧書きで、二つの写本が追記されていますが、これは、紀元後100年よりも、ずっと後になって加えられたものであると考えられています。
 今日の部分は、もとの文を見ますと、「彼らは恐れさせられていた、なぜならば。」と唐突な表現で終わっています。ですから、これに続く文があって、それが、何かの理由で失われたのだと考える人もいます。しかし、私たちは、現段階では、もっとも、信用できる写本に従って、今与えられているマルコ16:1-8、こそ、マルコ福音書の結論であると、信頼して、み言葉に聞くことにしましょう。
それと言いますのも、4つの福音書の中では、マルコ福音書が、一番古く、他の聖書、特にマタイとルカとは、マルコ福音書をいわば、下敷きにして書かれていると考えられているからであります。
 主イエスは、三度までも、自分が、エルサレムに行って、祭司長や当局の者たちから憎まれ、排斥され、さらには、異邦人の手に渡され、殺されるが三日目によみがえる、死人の中から起き上がらされる、と12弟子たちに告げていました。
 私たちの罪のために、苦しまれ、死んで、しかし、よみがえると、弟子たちに聞かせて、ここまで来られたのであります。
さて、私たちが、復活祭に、思い起こすのは、何よりも、自分の親しい者の死ではないかと思います。私も3年ほど前に、父をなくし、心の傷を負って1、2年は大きな悲しみを感じました。また、つい最近は、50歳過ぎの若さで、3人の息子さんを置いて、天に召された、同じルーテル教会の姉妹のことを、祈らずにはおられません。死んだらどうなるのだろうか、自分自身の死をも、想像すると、不安と恐れを、覚えずにはいられませんが、聖書は、死は、人間の罪の結果だと言います。それを、打ち破られる出来事が、今日読みました、主イエスの復活の出来事であります。
 マグダラのマリア、ヤコブの母のマリア、そして、サロメは、主の十字架の死を見定め、アリアタヤのヨセフによって埋葬された墓の位置を確認していた上で、安息日が今の土曜の日没によって終わると、香料を買い求めます。特に死後3日間は、遺体を丁重に葬るのは、当時の慣習で、ましてや、ガリラヤから着いて来ていた女弟子たちにとっては、当然のふるまいでありました。
 そして、安息日どもからの1日目、週の初め、今日の日曜日の非常なる早朝のこと、日が出た後に、3人は、「墓」、思い出のしるしという意味の言葉ですが、先に確かめていたその墓に向かいます。3人は、あの墓の大きな石、1メートル半から、2メートル位の正方形の形をしたものであったでしょうか、まるいものだったか、そこをふさいでいた大きな石をだれが、転がしてくれるだろうかと、思っていました。心もうつむき加減で来て、顔を上げると、何とその石は既にのぞかれていました。
 そして、中をのぞくと、若者が右手にみえて、3人は不安になります。すると、白い衣を着た若者は言います。「不安がることはない。あなた方は、あのイエス、ナザレの人、十字架に架けられた方を捜している。あの方はよみがえられた。ここにはいない。見よ、彼らが彼を置いた場所である。あなたがたは、出て行って、その弟子たちと、かのペトロに言いなさい。彼はあなた方より先にガリラヤに向かっている、かつて、あなた方に言われたとおりにと。」3人は外に出て逃れて行きます。そして、震えと、困惑、エクスタシーと言う言葉ですが、それに捕らえられます。そして、「彼らは恐れさせられていた、なぜならば」と今日の復活の記事は終わっているのです。
  人間の力で、神のことを推し量ることはできません。若者の形を取った天使が、主復活の出来事を伝えます。石を取り除かれたのも、神の働きでありました。
 恐れで、3人は、逃げ出し、弟子たちにも、伝えられないでいたと、マルコは閉じています。けれども、神のなさった約束を、やがて、知って、マグダラのマリアたちも、やがて、復活のよき知らせを、告げ知らせて行ったのであります。
 私たちの罪を赦し、新しく生きる者とされ、死をも、罪をも打ち破った方の良き知らせは、この後、世界に充満していきます。
 キリストは、死人たちの中ら、パウロも言うように、朽ちることのないからだでよみがえられました。そして、私たちも、終わりのラッパがなるときに、一瞬にして、この新しいからだを、着せられます。滅ぶことのない、朽ちることのないからだを、着せられるのです。主イエスと共に、この朽ちることのない命を与えられ、命ある限り、罪の赦し、新しい生活をさせていただきましょう。アーメン。

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2015/04/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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