津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスのからだのよみがえり」(ヨハネ2:13-22)
ヨハネ福音書2章13節-22節、2015年3月8日、四旬節第3主日礼拝(典礼色―紫―)、出エジプト記20章1節-17節、ローマの信徒への手紙10章14節-21節、讃美唱19(詩編19編2節-15節)

ヨハネによる福音書2章13節-22節
 
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人対はイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
 

説教「主イエスのからだのよみがえり」(ヨハネ2:13-22)

 ルーテル教会では、毎週の日曜日の礼拝のためには、3つの聖書個所、ペリコペーと言いますが、これが3年サイクルで与えられています。さらに、今検討されている新式文では、讃美唱も、これは殆ど詩編から取られていますが、これも、再び取り入れられようとしています。
 多くのプロテスタントの教会では、ルーテルの伝統的なやり方は、むしろ、珍しいことで、今でも、多くの教会が、今年はマタイ福音書を通読しよう、それが終わったら、ローマの信徒への手紙を通して、福音を聞いていこう、というふうな礼拝を守っている。あるいは、牧師が日曜日の説教個所を1回1回選んで礼拝を守っているのが多いのではないかと思います。
 しかし、私たちは、長い伝統のある聖書日課に則り、さらには、式文をほとんど毎週使って、礼拝をしています。
 二つの以上のような礼拝のやり方には、それぞれ、一長一短があると思います。私たち、ルーテル教会に属する者としては、礼拝での聖書日課を豊かに用いながら、あとは、聖書研究会や、家庭集会、そして、家族での「聖書日課」を使っての礼拝や、各人の聖書通読などを通して補強していくことが大切だと思います。
 さて、今日の第1の朗読は、出エジプト記から、モーセがシナイ山で十戒が与えられる記事であります。出エジプトの大変に厳しい40年の旅の中で、この十戒が示されるのであります。
 ルターは、もしも、十戒が十分に守られるのであれは、信仰も必要がなくなるだろうというような言葉を述べていますが、その通りで私たちは、十戒が守れないことから、罪を認識させられ、キリストへの信仰へと導かれるのであります。
 そして、神が世界をお造りになって、休まれた7日目を、今では、教会は主の復活の日である日曜日に守り、創造主である神のみわざに思いを潜める日として、神のみ言葉、とりわけ、キリストの福音を聞くために、礼拝に集うのであります。
 次に第2の朗読はローマ書から、パウロの手紙の一節を与えられています。そこで、パウロは、信仰は聞くことによって、しかもキリストのみ言葉を聞くことによって起こると言います。
 そして、この福音は、全世界に今や告げ知らされており、イスラエルの民にも、神は絶えずみ手を差し伸べていたと語り、しかし、彼らはうなじを固くして聞こうとしないでいると、イザヤ書の預言の言葉を使って述べ、自らはこの福音を伝える器として働いていると説いています。
 今日の讃美唱も、神のみ言葉は、太陽や月、星など自然を通して示され、また、完全な律法、神の教えを通して、全地に知れ渡っていると讃美の歌をうたっています。
 さて、今日の福音は、主イエスの「宮清め」と呼ばれている個所であります。
福音書の始まったばかりのところで、ヨハネ福音書では、この出来事が記されています。
 すぐ前には、カナの婚宴で水をぶどう酒に変えるという婚宴の席での喜ばしい初めてのしるしを、主は行われ、これを見た弟子たちは信じたとあります。
 ところが、その後に、今日の、主イエスのなさった、激しい宮清めというふるまい、そして、そこで語られた主イエスの、謎めいたみ言葉が記されています。これは、どういうことなのでしょうか。
 他の福音書では、主イエスは、最後に、エルサレムへと、十字架につくために上られ、そのときに、神殿の境内で物を売り買いしている人々を追い出し、そこで結局は、ユダヤ当局から、反感を買い、あなたは、何の権威で語ったりしているのかと詰問され、やがて逮捕されて、十字架にかけられるという結末に至っています。
 それに対して、ヨハネ福音書記者は、福音書を始めるにあたって、最初の時点でこの出来事を記しているのです。
 それは、ヨハネにとって、この宮清めをなさった主イエスのふるまいと、そこで語られた主イエスのお言葉が、主イエスの生涯と働きにとって、決定的に大事であることを、示しています。
 カナの婚宴での、最初の喜ばしいしるしに対して、ここでは、同じユダヤ教の慣例、伝統がまったく新しいものに変えられることを暗示していますが、今日の出来事は、主イエスのからだの滅びと主に対する敵対と緊迫をもたらす対照的なしるしになっているとも言えるでしょう。
 さて、このところ日本では、少年の命が理不尽にも奪われるといういたましい事件が今年になって何件も続いています。私たちに、神によって与えられているかけがえのない命とはどういうものなのでしょうか。
 昨年末、九州のある小さなルーテル教会では、そこでは毎週10名に満たないような礼拝が守られているのですが、その教会を支えているといってもいい姉妹が、身近な、その教会の姉妹のお父さんの洗礼式があって、主日の朝、教会での愛餐会の準備をしておられたようです。ところが、脳溢血で倒れて、教会の人たちの発見も遅れて天に召されました。51歳の若さでした。3人の息子さんたちを残し、働き盛りの御主人を残しての、地上での生涯を閉じられました。私たち人間は皆、生まれた時から死に向かって生きている存在であります。しかし、それでは死によって、私たちの地上での宣教のわざは、一切無駄になり、空しくなるものなのでしょうか。聖書は、それに対して、ノーであると答えています。
 今日の福音書での、主イエスは、いつもと異なり、縄で鞭を作り、牛や羊や鳩を追い払い、両替人の机をひっくり返して言います。
 「私の父の家を、商人の家にしてはならない」と。神の礼拝の場、エルサレム神殿が、一方で、神殿の境内では、商売により不当な利益の場となり、まことの礼拝がなされなくなっているのです。
 そこに、主イエスは立ち、自分のからだを通して、まことの礼拝を回復し、実現するためにお出でになられました。
 「この神殿を壊してみよ。私はそれを三日で起こしてみせる」と。それが、今私たちが礼拝している教会だと言われるのであります。そのエルサレム神殿でもなく、ゲリジム山においてでもなく、霊と真実をもって礼拝するキリストのからだの教会なのであります。
 今は、キリストの十字架への道行きを思い起こし、罪を悔いるレントの時期でありますが、主イエスがこの日の出来事をなされ、また、そのときのみ言葉を残されたことを、弟子たちは、主の復活後に想起し、主イエスを信じたと聖書は語っているのであります。
 私たちは、例年通り、この四旬節を、主イエスの死と復活を思い起こすべく、教会暦を歩んでいますが、なかなか罪を認識し悔いることができませんが、み言葉を学び聖書の教えに励まされつつ、洗礼と聖餐の恵みの手段に参与しながら、世にキリストを証しする生活をこの場から歩んでいきたいものであります。アーメン。

案内:4月2日(木)午前10時~11時、 午後7時~8時、洗足聖餐礼拝
   4月3日(金)午後2時~3時、  午後7時~8時、受苦日聖餐礼拝
   4月5日(日)午前10時半~11時45分、復活祭聖餐礼拝、午後6時~夕聖餐礼拝
   4月19日(日)午後3時~4時、東教区我孫子墓地・春季墓前礼拝
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2015/03/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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