津田沼教会 牧師のメッセージ
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「山を下りるイエスさま」(マルコ9:2-9)内海望牧師
マルコ福音書9章2節-9節、2015年2月15日、変容主日聖餐礼拝(典礼色―白―)、列王記下2章1節-12a節、コリントの信徒への手紙二3章12節-18節、讃美唱97(詩編97編1節-12節)

マルコによる福音書9章2節-9節
 
 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばいいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。


  説教「山を下りるイエスさま」(マルコ9:2-9)内海望牧師

 今日は、「変容主日」と名付けられた特別な主日です。高い山の上で、イエスさまの姿が変わられた出来事を覚える時です。毎年、この聖書の箇所が礼拝で読まれる時は、教会暦の大きな転換期に当たります。四旬節(受難節)を迎えるのです。
 今週の「灰の水曜日」から、祝日である日曜日を除いて40日間、私たちはイエスさまの受難と十字架に心を注ぐ時として過ごします。教会の典礼色も悔い改めを表わす紫色に変わります。そして、祈りつつイースターの日を待つのです。
 さて、今年の福音書はマルコですが、マルコはイエスさまの十字架と死を最も大切なことと考えていましたから、イエスさまの誕生などには触れず、全16章のうち、今日の9章以下全部をイエスさまの受難、十字架の死、復活の出来事に当てています。イエスさまの死と復活こそ福音だということを強調したかったのです。
 今日の福音書の日課に目を向けましょう。高い山の上で、イエスさまの姿が、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの目の前で変わられたという出来事です。確かに、イエスさまの姿は、変わられたのですが、実は、これは、イエスさまが、一瞬ですが、そのヴェールを取り払われ、ご自分が上から来られた方であり、主であり、神の子であるという、その真の姿を現わされた時なのです。天の輝きの中で、イエスさまは、言わばご自分の故郷で、モーセ、エリヤと語っていらっしゃるのです。これを見て、ペトロが喜びにあふれ、思わず語り出します。
 ペトロは、自分がこの世界の暗闇から引き離されて、今、立っているこの天上の輝きに包まれて生きて行くことが出来たらどんなに素晴らしいことか、と心から願ったのです。それで、「ここに仮小屋を三つ建てましょう。」という申し出をしたのです。
 私たちは、この数週間、本当に真剣に祈りを捧げて来たと思います。私たちの世界の暗さに目を覆いたくなります。無くの幼子を始め、人々の無残な死を前にして言葉を失っています。また、この現実を、どう考えていいのでしょうか。私たちの世界の暗闇の深さに心が沈みます。
 加えて、私たちの日常生活には、日々迫って来る様々な思い煩いがあります。また、病の痛み、苦しみ、事故、死の不安等々が心を乱します。
 更に、私たち自身の、利己的で、欺瞞に満ちた心、このまま生きていてよいのかという問い。自分への失望、嫌悪感もあります。
 私たちを取り囲む悪夢に満ちた世界を離れて、この光輝く天上の世界で、イエスさまと共に生きて行けたらどんなに素晴らしいだろうというペトロの願いは、同時に私たちの願いでもあります。私たちの心の奥には、純粋な心で生きたい、偽りのない生き方をしたいという願いがあります。この世俗の世界を離れ、一人静かに過ごしたいという祈りがあります。新しく生きたいという再生への願いがあります。
 今、ペトロの眼前に広がる光景は、何と穏やかな平和に満ちた世界でしょう。イエスさまの「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」と描き出されています。そこで、イエスさまはモーセ、エリヤと語り合っていらっしゃるのです。
こんな世界に生きることが出来たら、と誰でもが願う世界です。
 しかし、そのようにんがうペトロや私たちは、イエスさまの歩みを全く誤解しているのです。私は、今日の日課が、文章の区切りである8節で終わらず9節まで続いていることを本当に嬉しく思います。何故なら、まさに、ここに福音があるからです。
 9節には、「一同が山を下る時」と記されています。イエスさまは、山を下りて、私たちが生きている世界に敢然と分け入って下さったのです。これが福音です。ここに、私たちの大いなる喜びがあります。イエスさまは「高い山」でご自分の真の姿を現わされました。しかし、私たちは今、イエスさまが、私たちの世界の深みへと下って行かれる姿を見るのです。
 「高い山」という表現が印象的です。「天上の高み」かあ「この世界のどん底」にまで下りて下さったのがイエスさまなのです。ペトロや私たちの願いとは全く逆な歩みです。この世界を出て、純粋で、平和に満ちた輝くばかりの世界に昇って行くのでなく、そこから、この世界の暗い深みに向かって下って歩まれるのがイエスさまなのです。この世から逃げだすのでなく、この世界と共に歩もうとされるのです。
 イエスさまは、高い山から下りてこの私たちが生きている世界に来られました。すると、そこにはすでに人間の悲惨な苦しみが待ち受けていました。病に苦しめられている子どもがいました。14節以下。この子供は病に振り回され、18節。文字通り七天ハ倒しているのです。その子を来る日も来る日も見守る父親の心の痛みと涙はどれほどのものであったでしょうか。想像を絶します。イエスさまは、このような私たちが逃げ出したいと願っている、苦しむ世界に歩み入って下さる方なのです。
 聖書には、病をいやすイエスさまの姿が数多く出てきます。これは奇跡物語ではありません。そうでなく、イエスさまが、苦しむ人の傍らに立たれたことを示す出来事なのです。しかも、注意して読まなければならないのは、当時と現代では「病気」という言葉の意味が全く違うということです。疫病が古代世界に及ぼした影響について多くの歴史家が書いています。ひとたび疫病が蔓延し始めると、人々は病人を見捨てて、一斉に逃げだしたそうです。治療法などなかったからです。仕方がなかったとも言えますが悲惨です。それでも、疫病にさらされた地域は人口は4分の1から3分の1を失ったそうです。3人に1人か、4人に1人が死んでいったのです。まさに悪夢のような出来事だったのです。「放置され、祈ってくれる人のいない苦悩」「看取られない苦しみ」はどんなであったでしょう。
 今日の日課に印象深い記述があります。8節です。「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。「イエスだけが」と書かれていますが、これは決して孤独を示す言葉ではありません。私たちが誰にも理解されず、一人苦しんでいる時にも、イエスさまだけは、私の傍らにいて下さっていることを示す言葉です。ここに今日の福音があり、限りない慰めがあるのです。
 しかし、イエスさまは、ここに留まらず、更にこの世界の深みに向かって歩み続けられます。それは、十字架への道です。人間世界の悲惨さの深淵に横たわる罪と死の世界にまで下って行かれるのです。私たちは、いざという時、自分の安全を第一に考え、隣人を忘れてしまう私自身の姿に茫然とします。身勝手な生き方でこの世を混乱に陥れているのはほかでもない私たちなのです。
 私たちには常識がありますから、表には出しませんが、私たちの心には、時として、怒り、憎しみ、妬みの心が渦巻くことがあります。私たちに、ファリサイ派の人々を批判する権利はありません。私たちは決して稀にみる傑出した聖人などではありません。結局のところ、私たちは普通の人間なのです。イエスさまは、そのような私たち一人一人の傍らにまで来て下さるのです。そして、御手を置いて下さるのです。
 イエスさまは、このように世界の深みにまで下りて来てくださいました。それだけでなく、ゴイルゴタの丘で、わき腹を槍で突き刺され、十字架の上で長時間かかって屈辱を受けながら死ぬことによって、地上の罪の苦しみのすべてを経験し、私たちの罪と死のすべてを引き受け、担って下さったのです。ゴルゴタの丘の上には三本の十字架が立っていたのです。その真ん中にイエスさまの十字架があったのです。その上で、イエスさまは、十字架上で、「父よ、彼らを赦して下さい。」と私たちのために祈って下さった方なのです。
 「しかし」、まさに「しかし」です。イエスさまは、その死によって、罪と死に勝利を収め、復活されました。私たちにも罪の赦し、新しいいのちを与えて下さったのです。イエスさまの赦しの祈りにこの世界は包まれ、救われたのです。もはやイエスさまの赦しの愛、その光の及ばない所はありません。このことによって、この世俗の世界は、聖なる世俗世界に変えられたのです。私たちは、これからも日々、悔い改めと、思い煩いに生きることでしょう。苦しみ痛みは続きます。しかし、イエスさまの十字架と復活によって、罪と死は最後の棘を取り払われたのです。復活の主イエス・キリストだけは、どんな時でも私たちと共にいて下さいます。今まで自分を縛り付け苦しめていた床(罪と死)を軽々と担いで、足取りも軽やかに歩む姿が、十字架によって罪赦された喜びを信じる私たちの姿です。
 イエスさまの十字架の愛に悔い改めと感謝をささげる時として歩む四旬節としましょう。
 













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2015/02/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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