津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなたの罪は赦された」(マルコ2:1-12)
マルコ福音書2章1節-12節、2015年2月8日、顕現節第6主日礼拝(典礼色―緑―)、ミカ書7章14節節-20節、コリントの信徒への手紙一9章24節-27節、讃美唱32(詩編32編1節-11節)

マルコによる福音書2章1節-12節
 
 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ていている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神お一人のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


説教「あなたの罪は赦された」(マルコ2:1-12)

2週間ほど前になりますが、総会の後、ベトナムのホーチミン市内、すなわち、もとサイゴンと呼ばれました市内に3泊4日の短い旅行をしましたが、そこは、いわば50年前の日本を思わせるように、貧しいが活気に満ちており、人々は打ち解け合い、子供も大人も、男も女もみんなが平等に笑顔で暮らしている国のように思いました。
通りは、日本のホンダのバイクが四六時中、警笛を鳴らし、朝早くから夜になっても、二人乗り、あるいは、子供は三人乗りで乗せて、市内を駆け巡り、信号もありますが、ほとんどないのと同じで、そこを横断するのは、いわば綱渡りのような状態です。東洋と西洋がすんなりと解け合った国となっており、かつては、フランス領であったこともあり、フランスパンが一段とおいしい国でした。
翻って日本の社会はどうでしょうか。経済が発展し、科学も文化も頗る成長を遂げて、制度的にはこれ以上に発達できるのかと思えるほどに都会も地方も豊かな国になっているようですが、一方ではつい先日も小5の男子が、近くの不審な男に路地で殺害されるという傷たましい事件が報道されています。闇がかつてなく浸透している社会でもあります。学校でのいじめや、凶悪な犯罪などは、50年前の日本では考えられないレベルにまで蔓延していると言っていいかもしれません。
さて、今日の第1朗読ミカ書は終曲の部分で、その民イスラエルを赦される神が記されています。
第2朗読のⅠコリントの手紙では、パウロは、信仰を与えられ、救われた自分は朽ちない冠を得るためにどこまでも節制しながら、自らを慎んでいく、それは福音を宣べ伝えておきながら、ついには、自分が救いへの失格者とならないためであると自戒の言葉を述べています。
さらに、讃美唱の詩編32章1節から11節では、自分の罪、咎を主のみ前に隠さず告白して、主の慈しみに生きる幸いを詩人は歌っています。
さて、今日の福音は、マルコ2章1節から12節です。癒しと罪の赦しの問題を、まだ最初の方の福音書の場面ですが、マルコはここで大きく取り上げています。
カファルナウムへと、福音を告げ、悪霊を追い払う宣教の旅から再び戻って来て、主はある家庭の中でみ言葉を説いておられます。良き知らせ、福音を告げるという本来のわざに戻っておられます。
ところが、そこに、4人の男が中風の者をマットのような貧しい寝床のままで、連れて来くるのです。み言葉を語る主のみわざは、しばしば、思わぬ突発的は出来事によって中断させられます。
中風というと、今ではあまり聞かない病名となりました。運動麻痺、あるいは、脳卒中といった病気だったでしょうか。彼が、どのような病状であったのか。重い病気であって、当時の人々は、それは先祖や本人の多くの罪にも関わっていると考えていました。主イエスは、盲目に生まれついた人について、それは、彼が罪を犯したためでも、両親が罪を犯したためでもなく、神のわざがその人を通して現わされるためであるとも、ヨハネ福音書の中で言っています。
私たちは、今では、病気は罪とは直接関係ないと考えていますが、一方で聖書は、罪の結果が死であると説いています。そして、神との関係が破れていることが、罪であると聖書は説いており、分かりやすくは罪とは、的外れな状態であると言われます。
さて、戸口に集まっていた群衆のゆえに、近づくことを遮られた彼らは、この人を屋根をはいで、穴をあけて、粗末な寝床、マットに寝かせたまま、イエスのいた上の辺りからつり降ろします。
そして、「彼らの信仰」を見て、とマルコは書きます。本人の信仰も含まれていたかもしれませんが、あるいは父親や友人であったかもしれません、その彼らのイエスへの信頼の行為が、この人を癒しへともたらすのです。
周りの人々の信仰がある人を、イエスへの信仰へと導くこともあるのです。私たちは、ある人の救いのためにとりなす信仰の大切さを、ここに見出すことができます。
主はそれを見て言われます。「子よ、あなたの罪どもは赦される。まさにこの瞬間、赦されたのだ」と。ここでの罪は一つではありません。私たちを、神とのまったき関係から破れさせ、的外れは関係に陥れている状態が本来の状態へ、まったき状態へと回復されるのです。
しかし、そのような罪の状態から回復させるのは、今日の旧約にもありますように、神のみのなしうる神の専権だと考えられていました。それで、律法学者たちの数人は、「このようなことを言うこいつは何者だ。神お一人のほかに、罪を赦ししうる者はいない」とあれこれ考えていました。主は、その霊の力で、それに気づき、なぜ、心の中でそのようなことを考えているのかと、問いただされて言います。
「あなたの罪は赦された」というのと、「起きよ、あなたの床を取り上げ、歩き回れ」というのとどちらが容易いか。後者の方が、もし、その通りにならなければ、まだ罪も赦されていないことが、判明し、難しいとも、思われますが、やはり、罪が赦されると言うことは、神以外にはできないことですから、前者が決定的により難しいことでしょう。
主は、2章10節で「あなた方が知るために、すなわち、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること」を、と言います。
イエスは、神の子であると同時に人の子です。人の子とはダニエル7章13節から来ていますが、主イエスはご自分のことを、ここで「人の子」と呼ばれました。現在の人の子、苦しむ人の子、再臨の人の子が考えられますが、罪を赦す方として、罪人や病人と食事をし、交わりを持ち、罪による神との破れを回復し、全人的な健全さ、心身のまったき状態へと回復させて下さる方として今日ここに宣言されています。「起き上がり、あなたの床を担いで、あなたの家へ帰りなさい。」
この宣言は、私たちすべての者に語りかけられています。私たちの罪は、このお方の到来によって、その権威によって、既に赦されています。
そして、全人的にまったく新しい生を歩む者として、今日の中風だった人のように、私たちは、変えられていきます。そして、そのために、このお方は、「人の子」として、この世の当局者たちによって、ユダヤ人の指導者たちによって、命を奪われる者であることが、既に2章1節から3章6節までの5つの論争物語を通して示されています。
いわば、50年前を進んでいるかに見えるベトナムの人たちにも、文明の最先端を豊か見歩むかに見える日本の都会に住んでいる私たちにも、罪からの全人的な回復は、すべての人にとって今もなお、緊急に必要でなくてはならない要求なのです。
そして、そのために、主イエスは、2000年前に、今日の中風の人を通す出来事を通してお出でになり、今もなお、そのみ言葉を語っておられるのです。
私たちも、今、主のお言葉を受け止めて、起き上がり、床を担いで、与えられた仕事へと出てゆき、日々、そのお言葉に従って、歩き回る者とされましょう。アーメン。
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2015/02/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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