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津田沼教会 牧師のメッセージ
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「良き訪れを告げ知らせつつ」(マルコ1:29-39)
マルコ福音書1章29節-39節、2015年2月1日、顕現節第5主日礼拝(典礼色―緑―)、ヨブ記7章1節-7節、コリントの信徒への手紙一9章16節-23節、讃美唱147(詩編147編1節-13節)

マルコによる福音書1章29節-39節
 
 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブもヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

朝早くまだ暗うちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


説教「良き訪れを告げ知らせつつ」(マルコ1:29-39)

先週、津田沼教会の総会あと、イスラム国に拘束されている後藤さんの安否も気遣われる中でしたが、ベトナムへと説教研で、旅行し、ホーチミン市、これはかつてのサイゴンですが、その街のホテルに三泊するという旅行をして来ました。しかし、今朝早く、後藤さんの死が報じられ、イスラム教の心ある人たちも祈っていた、世界の多くの人々の祈りが聞かれなかった結果になり、胸を痛めています。
さて、ベトナムのこの都市では朝早くから、夜遅くまで、市内の主要道路は、バイクが警笛を鳴らしながら、殆ど四六時中、所狭しと行き交っています。一人一台、持っているとのことで、二人乗り、あるいは子供を乗せる場合には、三人乗り、4人乗りも稀ではありません。ほとんどだれもが、バイクに乗っています。信号も少なく、しかも、信号があってもないようなもので、通りを横断するのは、私たち慣れぬ者にとっては綱渡りのようなもので、言わば命がけでした。
ベトナムは、国としては多くの人々が小乗仏教で、当地では正月を迎える前とあって、市内は人々の様子も興奮気味らしく、普段以上に活気を呈していたようです。
通りの店や路面の屋台でも外食は安くて、たいていの人忙しいのでそれに頼っているとのことです。巧妙なすりも、日常茶飯事で、財布や携帯をとられた、当地で会ったベトナム勤務の日本人は、そのやり口はあっぱれだと、感心していました。
物価、特に食品、食べ物は安く、日本の半分以下です。
ベトナムでは、都会のホーチミン市のメイン通りを歩き回っただけの今回の旅行の行動半径でしたが、東洋と西洋の入り混じった、独特の魅力があり、いわば50年前の日本に舞い戻ったような体験でした。
 しばらく日本を離れて、ベトナムの人たちと交わり、キリスト教のことも、客観的に振り返る時が与えられました。ホーチミン市には、大きなマリア大聖堂もありましたが、基本的には、仏教です。あの親しみを持った、ベトナムの人たちにとって、今日の聖書の個所は、どういう意味があるのでしょうか。いや、私たちにとって、これらのみ言葉は何を意味するのでしょうか。しばらくご一緒に考えたいと思います。
 今日の讃美唱、詩編147章1節から13節はは、バビロン捕囚を経て、いよいよエルサレムを再建されるという神をほめたたえ、イスラエルの民の罪を赦される主なる神を歌っています。そしてその主は、鳴く烏や獣に食べ物をお与えになる神ですが、馬の足を喜ばず、人の足の速さを望まれず、主を畏れる者を喜ばれる方です。
第1の朗読、ヨブ記7章1節から7節で、ヨブは、人間の営み、自分の労苦は、傭兵や奴隷の働きのようなものだと憂いて、神に向かって、私の命は息のようなものに過ぎないと瞬時の生涯を、訴え、なぜあなたは、このように人間をはかなく、脆くお造りになったのかと、むしろ神を告発するかのようです。
第2の朗読では、Ⅰコリント9章16節から23節が読まれました。パウロは、自分は、福音の奴隷であるから、福音のためには何でもする。ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法のない者には律法のない者のようになった。それは、そのようにしてその内の幾人かでも救うためであり、福音を無代価で宣べ伝えることによって、ついには、その者たちと共に私もその福音に参与するためであると言っています。
さて、今日の福音は、マルコ1章29節から39切に入っています。
一行がカファルナウムに入って、安息日のこと、最初の奇跡を、主がなさったあと、一行、五人は、シモンの家にやって来ます。
 ところが、シモンのしゅうとめは、熱を出して、伏していました。シモンたちは、彼女を癒してくださいと、言うと、主は彼女に近寄り、手を取って、起こします。すると、熱は出て行き、彼女は、彼らに奉仕していたとあります。デイアコニオーという言葉で、これは、弟子のあるべき姿を表わしています。家庭生活、私的な生活の中に、主イエスの力が、先週のシナゴーグでの宗教生活の場面に引き続いて示されます。
そして、次には、その戸口に、町全体が殺到していたとあります。その日の夕方、日没後、安息日が終わって、人々はあらゆる病気の人や悪霊につかれた人を主イエスのもとに、もたらします。公生活においても、主イエスの力、権威は遺憾なく示されるのです。主はその連れて来られた多くの病人をいやし、また大勢の悪霊に疲れた者たちから悪霊を追い払います。そして、主は、悪霊どもに、しゃべることを許さなかった、彼らは彼を知っていたからと言います。主イエスの敵である悪霊どもに、イエスはここで勝利なさっています。しかし人間は、彼がキリストであることを、この時点では理解できないのです。
 さて、翌朝、まだ早い、夜中に、主は起き出し、外に出て行き、寂しい所へと出て行かれます。そして、そこで、祈っておられました。
大切な時に、主はよく祈られました。十字架の前夜、ゲッセマネでは徹夜で祈ったことを、聖書は伝えています。神のみ心が成るように、私どもも、み言葉を読みつつ、あるいは、説教を聴きつつも、絶えず祈っていきたいものです。
 すると、シモンたちが主イエスのもとに追いついて来ます。これは、獲物を追跡するという良くない意味の言葉が使われています。そして、皆があなたを求めていますと言います。
 それに対して、主は、ここから出て、他の村へ行こう、そのために私は出て来たのだからと答えます。
 カファルナウムの町の人々は、主イエスのなさった奇跡に感心し、さらにその恩恵を受けたいと思っていたのです。奇跡を、自分の幸せのため、自分の幸福のためにだけ利用していたとも言えます。
 主は父なる神に祈り、それを洞察して、他の町々、村々へと宣教していきます。主は全ガリラヤへと、諸会堂で、告げ知らせながら、また、悪霊を追い払いながら、やって来たと、本日の福音は、締め括られています。 
主は良き知らせ、良き訪れを告げ知らせながら、私たちのもとに、お出でになられています。それは、病人を癒し、悪霊を追い払う奇跡を伴なったところの良き知らせであります。そして、さらにこの奇跡を通して、奇跡の恵みを受けた者は、それをなさった主イエスの弟子となるように、招かれているのです。その奇跡を通して、主イエスが十字架にかかり、復活させられることが示されています。そして、その主に従ってくるようにと、私たちは呼ばれているのであり、また、その福音を人々に告げ知らせるようにと、招かれているのです。
 今回の旅で私が出会った東南アジアのベトナムの人たちにも、私どもは、何がしかを通して、今日のこのキリストのみ業とみ言葉を伝え、紹介するべく、生かされている者であります。アーメン。
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2015/02/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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