津田沼教会 牧師のメッセージ
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「新しく生きる」(マルコ1:21-28)
マルコ福音書1章21節-28節、2015年1月25日、顕現節第4主日礼拝(典礼色―緑―)、申命記18章15節-20節、コリントの信徒への手紙一8章1節-13節、讃美唱95(詩編95編1節-9節)

マルコによる福音書1章21節-28節
 
 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。



説教「新しい教えに生きる」(マルコ1:21-28)
今日は総会礼拝に当たっています。それに与えられている聖書の個所、それらは、神さまのくすしき導きとも思われる総会礼拝にふさわしい記事、ペリコペーであると言えるものであります。
まず、第1の朗読の申命記18:15-20は、モーセに主なる神が与えた預言で、あなたがたのために、あなた方の民の中から、私のような預言者が起こされる、あなた方は、彼の言葉に聞き従えというものであります。そのモーセのように、旧約聖書で約束されていた方が、主イエスご自身であります。
次に、第2の朗読は、コリントの信徒への手紙一の8章であります。ローマ帝国内の神々の神殿でささげられた犠牲の肉を食べてもよいのかどうかとの当時起こっていた問題に対して、それによって弱い信仰の人たちが躓くことのないように、パウロは、食物によって、私の兄弟を躓かせることになるのなら、今後一切、肉を口にしないとも言っています。信仰の小さい兄弟を躓かせることのないように、信仰によって与えられている自由を、愛によって制御していきたいと、私たちにも奨め、教えてくれています。
因みに、今日の讃美唱は、詩編95:1-9ですが、そこでは、出エジプトの民を導かれた主なる神への讃美が語られ、メリバやマサ、水で争ったり、神を試したりして、神に反抗した主の民の40年の荒れ野の旅が思い起こされていますが、私たちは、神の新しい民として、主に養われ、導かれて、礼拝を守り、神を賛美していることを、改めて思い起こされます。
さて、今日の福音は、マルコ福音書の1:21-28が与えられています。私は、今日の説教題を「新しい教えに生きる」と付けておきましたが、イエスの新しい教えに生かされるとは、どういうことなのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
先週の記事、すなわち、4人の漁師たちが、ガリラヤ湖のほとりで、主イエスによって、呼び出され、最初の弟子たちとして、主イエスの後に、すべてをおいて従って行ったという出来事に続いて、今日の記事が始まっています。
「そして、彼らは、カファルナウムの中へと行く。そして、イエスは、ただちに、会堂に入って、教え始められた」と、今日の個所は始まっています。
そして、今日の終わりの部分は、「そして、彼の良き聞こえは、ただちに、あらゆる方向に、全ガリラヤ地方の一帯へと出て行った」となっています。
そして、もう少し、この後を見て行きますと、シモンの家へと彼らはやって来ます。さらに、その日、日が暮れた後、その家の戸口に、町全体の人々が、悪霊につかれた者たちや病人を連れて殺到するという記事が出て来ます。
主イエスは、公の礼拝の場で教え始められ、次には家庭の生活の場で奇跡をなさり、更には公の生活の場でも、人々を引き付けられ、主イエスのいるところに、神の力が支配し、神の国が実現していくことを、マルコは表わしているのであります。
さて、会堂で、主イエスが教えておられたとき、人々は彼の教えに、正気の外におかれるくらい打たれていた、なぜなら、権威ある者のごとく、そして、律法学者のようにではなく、イエスは教えておられたから、というのであります。
律法学者たちは、律法を解釈し、実際の場に適用して、成功する時には、人々からの信頼と尊敬を受けますが、同じく、多分ファリサイ派のラビ、先生として見られた主イエスは、いわば律法そのものでありました。そして、「権威ある者のごとく」、権威ある方として、教えられていたのであります。
そこに、汚れた霊における人がいました。会堂の中に、悪霊につかれた人がどのようにして参列できたのか、実情はよくわかりません。イスラエルの当時の町や村では、いたるところで、会堂が町ごとにあり、聖書が読まれ、それについての解釈や説教がなされていました。
その汚れた霊は、大声でこう語って、叫びます。「私たちと、あなたととは何なのですか、イエスよ、ナザレ人よ、あなたは、我々を滅ぼしに来たのか。私は知っている、あなたがだれなのか、神の聖なる者だ」と。
「あなたと、私と、何なのか」というのは、かまわないでくれと、訳されていますが、エリヤがやもめの息子を生き返らせ、のちにまた、死んでしまった時にも、使っていて、そこでは、エリヤに、私を悩ませないでほしい、私の罪を思い起こさせるために、あなたはお出でになったのかという脈絡で使われています。
汚れた霊どもは、イエスがどういう方なのかを知っています。ナザレ人というのは、ナザレ出身という意味以外に、ナジル人、「若枝」とか聖別された者を指すかもしれません。そして、神の聖なる者とは、士師記では、士師となるサムソンについて、ナジル人が、「神の聖なる者」として、訳されています。
イエスがどういうお方であるか、汚れた霊どもは、分かっています。自分たちを滅ぼすためにお出でになった方、サタンの勢力に打ち勝つ方として、神の子として、そして、メシアであることを、知っているのです。
主イエスは、だまれ、この人から出て行けと咎め、叱りつけます。これは、相手を征服するという意味合いのこもった言葉です。お前は口輪をかけられよ、そして、出て行けというのです。
汚れた霊どもは、その人をひきつけさせ、もだえさせ、最後の抵抗をして、大声を上げ、死の嘆き声を発して出て行きます。
そして、すべての者たちは、びっくり仰天して、こう言って互いに論じ合います、「これは、何なのだ、権威に従った新しい教えだ」と。まったく今まで、私たちの耳にしたこともない教えだというのであります。
主イエスは、カファルナウムの会堂で、この最初の奇跡を行われました。イエスの教えは、私たちを、悪霊たちの力から、サタンの力から、神の力によって、解き放つものであります。イエスの教えた内容は、ここには、何も具体的には記されていませんが、イエスの教えとは、言葉とそのみ業、ふるまいであります。
私たちを、悪の力から守り、解き放つものであります。
 世界は今も激しく移り変わって行きます。何を、私たちは、信じて行けばいいのだろうか。神さまのなさることは、非情ではないかと思わされることもあります。昨日、鹿児島教会の小山先生から、月報が届きまして、ふと見ていますと、その兼牧をしています阿久根教会の姉妹の急逝が記されているではありませんか。10名ほどで礼拝を守っている群れで、その御主人は、水俣教会の幼稚園の貴重な卒業生で、全国を駆け回って、牛の獣医の仕事をなさっている方であります。年の暮れ、同じ信徒のお父さんが、年老いてようやく洗礼の喜びにあずかるという日の朝、一人、御馳走の準備をしていて、脳溢血で倒れたことが、後になって分かったとのことでした。三人の息子さんを残し、52歳の若さでした。その次男さんは、今年の年が明け、堅信礼を受けたということも、この月報には記されていました。
このような信じられないような出来事も起こされる神さまを前にして、何を信じていけばよいのか、自分の闇、また、世界の闇の中で、時として途方にくれそうになります。しかし、主イエスは、悪霊を追い払う力ある教えをもって、私たちの前に、今日お出で下さっています。この日の出来事は、目に見える形で起こされました。しかし、それは、私たちが、信仰の目を持って、受け取らなければ、新しく生きる力にはなりません。
この一年、津田沼教会にとっても、私にとっても、大きな節目の時となると思います。今日この後、開かれます津田沼教会の総会の上に、また、この一年の皆さま、一人一人の信仰生活、礼拝生活の上に、神さまの豊かな祝福がありますように。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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2015/01/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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