津田沼教会 牧師のメッセージ
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「方向転換への招き」(マルコ1:14-20)
マルコ福音書1章14節-20節、2015年1月18日、顕現節第3主日聖餐礼拝(典礼色―緑―)、エレミヤ書16章14節-21節、コリントの信徒への手紙一7章29節-31節、讃美唱62/2(詩編62章9節―13節)

マルコによる福音書1章14節-20節
 
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えられ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。




説教「方向転換への招き」(マルコ1:14-20)

顕現節第3主日となり、典礼色はしばらく緑が用いられます。顕現節とはエピファニーという言葉で、文字通り、神がみ子を通して、この世界に現れるという意味です。
今日の福音は、主イエスのこの世界への登場と、初めての弟子たちを、ガリラヤの漁師から得るという出来事であります。
そして、第1の朗読、エレミヤ書の記事も、漁師や狩人が、人々を釣ったり、岩の穴に隠れている者を捕らえるといった終わりの時の裁きのような預言でもありますが、バビロン捕囚からイスラエルの人々が帰って来る約束の預言となり、ひいては異邦人の国々が、神々に仕えることをやめ、イスラエルのまことの神に立ち帰るに至ると預言しています。
さらに、第2の朗読、コリント第1の手紙も、終末を覚えて、妻のいる夫は、妻を持たないかのように、喜んでいる者は、そうでない者のごとくに生きるように、なぜなら、この世の事柄は過ぎ去るからであると、身をただして生きるように奨めています。
 さらに、今日の讃美唱、詩編62章の部分も、これを歌った詩人は、共同体内部の者によって苦しめられますが、今からは、富や人間の力、権力などに頼るのではなく、まことの力である神の慈しみに身を委ねて生きますという信仰を告白しています。
 さて、今日の福音、マルコ福音書1章14節から20節は、主イエスのこの世での宣教の第一声と、それに続くシモンたち、二組の兄弟の漁師であった者たちを、最初の弟子として召しだすという記事から成っています。
 「神の子、イエス・キリストの福音の初め」という出だしで始まったマルコ福音書は、今日のところで、洗礼者ヨハネが渡された後に、イエスがそれに続いて、やはり渡されることになる運命のお方として、ガリラヤへと、荒れ野でのサタンと戦って打ち勝った後に、お出でになったという文章で始まっています。
 荒れ野で、水で悔い改めの洗礼を宣べ伝えたヨハネとは違って、主イエスは、異邦人の地とも言われたガリラヤに、罪人がうずくまる闇にまみれた地にお出でになられるのであります。
 そして、その地での第一声は「時は満たされた、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」でありました。これは、預言者イザヤの言ったとおり、洗礼者ヨハネが起こったように、主イエスの到来において、同じくイザヤが預言した「喜びを知らせる者の足は何と美しいことか。神が、シオンにおいて王となられた」とのイザヤの預言が、この主イエスのお出でになられている出来事において既に成就しているとの主イエスご自身による宣言であります。
 主イエスは、旧約聖書によって約束されていた、良き知らせ、終末時の喜びの訪れを告げる使者であると共に、その喜び、「福音」そのものなのであります。
 マルコは、主イエスがガリラヤの地で現れたこの時に、旧約聖書で待たれた喜びの音連れが実現したと言いたいのであります。
 ですから、その時は満たされ、神の支配が実現しているのですから、その神の向かって、自分の全生活を方向転換させ、神に立ち帰って、身をゆだねることが、「悔い改め」であり、それは、イエスにあっては、悲しいことではなく喜びなのであります。
 さて、このイエスは、ガリラヤ湖に沿って歩いて行きます。そして、シモンとシモンの兄弟アンデレが網を打っているのを御覧になります。そして、何と「私の後について来なさい。あなた方を人間をとる漁師にしよう」と招くのです。それに対して、二人は、網を捨てて、すぐに従ったとあります。魚をとるのにはたけていた二人は、今度はその心もつかみ難い人間を相手にする漁師に成らせてあげようという主イエスの言葉にゆだねて、漁の仕事を中断して、網を捨て、即座に従ったと、マルコは伝えます。
 更に少し進んで、今度は舟の中で、父や雇い人たちと共に網の手入れをしていた兄弟ヤコブとヨハネを見て、すぐに呼びます。すると、二人もすぐに、舟の者たちをあとに残して従ったと今日の弟子召命の出来事は記されています。
 私たちもまた、このイエスによって召し出され、弟子とされた一人一人であります。神へと全身をゆだねて生活を方向転換し、そして、やっていた仕事、あるいは計画を中断して、人間をとる漁師へと変えられた者であります。そのようにして、洗礼を受け、今も歩んでいる一人一人なのであります。私たちに、そのような道を歩むことができるのだろうか、自信がありません。けれども、イエスは、「私があなた方を人間をとる漁師になれるように、作るであろう」と保証して下さいました。生涯をかけてひたすらそのみ声に従って行けばいいのです。きっと、私たちも、ペトロやヤコブのように、ついには、人間をとる漁師へと作り変えられるのです。それを信じて、この一年も歩んでいきましょう。アーメン。



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2015/01/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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