津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ぶどう酒に変えられた水」(ヨハネ2:1-11)
ヨハネ2章1節-11節、2014年12月28日、降誕後主日(典礼色―白―)、イザヤ書62章1節-5節、コロサイの信徒への手紙1章15節-20節、讃美唱111(詩編111編1節-10節)

ヨハネによる福音書2章1節-11節
 
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。


説教「ぶどう酒に変えられた水」(ヨハネ2:1-11)

今日は、降誕後主日、クリスマスのさなかの日曜日、そして、今年の最後の主日礼拝です。そこに与えられているのは、ヨハネ2章1節から11節です。
さて今日の主日の祈りには、「人となられたイエス・キリストによって、私たちをあなたのいのちに生きる者として下さい」とありました。
 今日の福音は、ヨハネ福音書2章1節は、「三日後に」とありますが、これは、ヨハネ福音書1章の「初めに言葉があった」との最初の創造の出来事から数えますと7日目の新たな、私たちの創造の出来事をも考えられているとも言えましょう。
 あるいは、もっと単純にはイエスの死後「三日目に」と、主イエスの復活を暗示していると考えることもできます。
 もっとも、文脈からはナタナエルがキリストに出会って、キリストから「あなたがいちじくの木の下で佇んでいるのを見た」と言われて、「あなたこそ、イスラエルの王です、神の子です」と信じたのに対して、イエスが「もっとおおいなることをあなたは見るだろう」、さらに、「人の子の上に、天が開いて天使がのぼりくだりするのをあなたがたは見るだろう」という預言の言葉から数えて三日後の出来事と言えましょう。
 さてそのとき、カナで婚礼があり、それに続く婚宴があって、主イエスの母も、主もその弟子たちも招かれていました。主イエスの親戚の結婚式だったのかも知れません。主イエスの公生涯の初めが、私たちにとって、何と言っても人生の喜びである婚礼の出来事で始まっているのは、まことに、主イエスにふさわしいことです。
 さて、ところが、この披露宴の途中でぶどう酒が足りなくなります。主イエスの母が、―どういうわけか、マリアとはヨハネ福音書では一度も出て来ないのですがー、彼女がそれに気づき、進言します。すると、主は、「婦人よ、あなたと私と何なのですが、私の時はまだ来ていない」と言います。
「婦人よ」という言い方は、自分のお母さんに対して、冷たい気がしますが、必ずしもそうではなくて、婚宴の席で大事なぶどう酒が切れたのに対して、こまやかに対処してふるまう姿に対して、語りかけている言葉とも言えます。十字架のもとでも、主イエスは、「婦人よ、ここにあなたの息子がいるよ」と、主が愛した弟子を指さして語っています。
また、「あなたと私とは何なのですか」というのは、聖書では、たとえばエリヤがやもめの一人息子が死んだのを生き返らせた後、また、死んでしまったときに、やもめが語った言葉です。やもめは、そのとき、自分の罪を思い起こさせるために、エリヤは死人を起こさせるという奇跡をなさったのですかと聞いています。
あるいは、新約聖書では、悪霊たちが、お出でになられたイエスに対して、この言葉を用いて、新共同訳聖書では、「私たちにかかわらないでくれ」と訳されています。
主イエスは、ここでは、母に対して「私とあなたとで、その問題は解決できるものではない。しかし、それが父なる神のみ心であるなら、み心の通りに神はなさるでしょう」といった意味で、この言葉を用いておられるでしょう。
更に、イエスの時とは、普通ヨハネ福音書においては、死の時、栄光のとき、十字架のあげられ、また、死から天へと上げられる時ですが、ここでは、主のそれよりは前の決定的な時、死へと至る受難の時くらいの意味ではないでしょうか。
 母への言葉は、一見、厳しいが、イエスは、母の進言に従って、奇跡を起こされます。それを、しるしと、ヨハネ記者は呼んでいます。イエスのふるまいを通して、神のみ業が現わされるのです。
6つの石がめに、2ないし3メトレテス入るものに、それぞれ水を上まで、給仕人たちが命じられたとおり満たすと700リットルにもなったことでしょう。1リットルのペットボトル、700本分くらいになりますから相当なものです。
給仕者たちは、それをイエスの指示に従って、宴会の主人、世話役、客から選ばれた者にしろ、給仕人からの者にしろ、宴会の主人で、酒の判定もできた者、口語聖書では料理頭と訳されていますがその者のところに持って行きます。
彼は味見すると、ぶどう酒、しかも上等のぶどう酒に変わっていました。給仕人たちは、それがどこからか知っていたが、その料理頭は知りません。
花婿を呼び、「人は誰でも、よいぶどう酒を先に出し、酔いが回ったとき、劣ったのを出すものだが、あなたは、今まで見事なぶどう酒をのけておいた」とほめます。これが、ガリラヤで主イエスがなさった最初のしるしであり、これを見て、弟子たちは信じとあります。
 この奇跡は、ごく少数の者にのみ現わされ、主イエスはその栄光を現わしたが、これは、1章から、2章、そして4章に至る流れの中でよりよく理解されます。
豊かな極上のぶどう酒は、イザヤ書ではメシアの終わりの日の祝宴で、上等の肉などと共にふるまわれるとされています。そして、この奇跡は私たちの聖餐をも現わしています。 
主イエスの復活、旧約律法の媒介者モーセにはるかにまさる恵みと真理が、独り子が地上に肉をまとって、人となられて、私たちに与えられました。クリスマスとは、人の子が、おおいなる栄光を現わす出来事ともつながっています。
真のからだによる礼拝、上から水と霊とにより生まれる必要性、サマリアの女に与えられるいのちの水、十字架と復活による栄光が示されるその出来事として、今日のしるしが与えられています。
これから、11章の終わりまでに与えられる12の奇跡、「しるし」の最初の奇跡として、今日の「しるし」が与えられています。それは、共観福音書の中に出てくる苦しみや悲惨の中に置かれた人を癒したり、5000人の飢えを満たしたパンの奇跡のように目立った、華々しいものではありません。
しかし、私たちの日常生活の喜びである結婚式の日に現わされた、ごくわずかの弟子たちにだけ、示された奇跡でありました。そうです、主イエスは私たちの喜びの中にも、それを満たして下さるためにも、奇跡をお用いになられるのです。しかも、ヨハネ福音書によれば、その最初のしるしとして、主イエスの栄光を現わすために、このしるしが行われたのです。
み子は、私たちに今日クリスマスの贈り物として与えられています。闇が支配するこの世に、まことの光が来て、私たちを光に歩む者としてくださいました。絶望しないで、この栄光を見、しるしを見て信じ、証しする者とされ、クリスマスと新年を心から祝いたいものです。アーメン。









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2014/12/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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